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No.823 時を超えて並び座す二人の女性

3月8日に、note仁の音「No.816 花の命は短くて」の中で、細川ガラシャ(1563年~1600年)の辞世の句について書きました。先日、そのご縁で、畏友のY子さんから大変ユニークで興味ある伯母さまのお話をメールで拝読。ご本人には事後承諾をお許し願い、この欄でご紹介させていただきたいと思います。
 
「以前、絵手紙にも書いた、伯母の小学校の入学式の時の話を思い出しました。(小学校)
担任の先生が、
『皆さ~ん、今から名前を呼びますので元気よくウグイスのような綺麗な声でお返事をして下さい!』
とおっしゃったので、最初に名前を呼ばれた伯母は、先生のおっしゃる通り元気よく、大きな声で、
「(ホ)(ー)(ホ)(ケ)(キ)(ョ)‼」(鳥)
と返事をしたそうです。
間違ってはいない!のですが.....(はい)。」

「伯母は16年前に亡くなった母の姉です。旦那さんは大阪外大のドイツ語の教授をしていました。高齢になってご近所の方を家に呼び老稚園と称し笛やチェンバロやハーモニカなど教えていました。バイオリンも弾いていました。オペラも習っていて友人とオペラ風に歌いながら会話してたそうです。
子供の頃からちょっと、変わっていたようで、ホーホケキョと言っても本人は恥ずかしいとは思わなかったようです。」

私は「老稚園」という、聞き慣れないけれども将来の学びの在り方を言い当てたようなその言葉に目が釘付けになりました。いつ頃生まれた(創られた?)言葉なのでしょうか?

ちょっと調べたら、宗田理著『ぼくらの七日間戦争』(角川文庫、1985年4月)の中に出てきておりました。登場人物の朝倉佐織の実家は「銀の鈴幼稚園」を経営していました。しかし、トラブルが続いて経営難に陥り、佐織の父親が、老人のためにと思って作ったものが「銀の鈴老稚園」でした。少なくとも38年前に「老稚園」の言葉は生まれていたようです。

人生100年時代を標榜して「学び直しや豊かな生活のための教養講座」などが全国各地で開かれていますが、良い意味の「老稚園」であり、その存在意義は大きいのではないかと思っています。
 
「もう一つ伯母の話。
夏の暑い盛りにお坊さんが仏壇のお参りにいらしてお経をあげて下さっていた折り、仏壇の部屋だけクーラーを強めに入れていたのに、
『坊さんが汗をかきながら、しんどそうにお経をあげている。こっちは、クーラーのない所で汗かきながら冷たい飲み物やお菓子の用意してるのに何事だ‼坊さんは修行が足らん』
と思っていたら、何となんと、伯母は間違って暖房を入れていたそうです。
『やっぱりお坊さんは修行を積んでらっしゃる‼』と...(汗)」

「伯母は、子供がいなかったので、いつまでも子供のままのようなところがありました。ちょっと、自分本意で頓馬(笑)なとこもあるけど、伯父が亡くなった後、還暦過ぎてドイツに行き、数年間日本語を教えたりしてました。音楽や油絵や語学の才能はあったようです。」

「我が家を新築した時も、
『ホントによく頑張った‼』
と言って、伯母という立場にしてはビックリする程のお祝い金を戴きました。自分は穴のあいた靴下を平気で履いていても、情に厚い人でした。伯母夫妻は、ヘル、フラで呼びあっていた遠い記憶があります。伯母の話をする人もいなくなり、こうしてスマホで思い出すことができ、供養になったのではと思っています。」
 
本当にその通りですね。「人は、二度死ぬ」と言ったのは、昔の思想家か宗教家かと思いきや、放送作家でエッセイストの永六輔さん(『二度目の大往生』)だったそうです。
「人間は二度死にます。まず死んだ時。それから忘れられた時。」
言いえて妙ですね。忘れないで思い出してあげられるのは、一番の供養だと私も思います。Y子さん、良いことをなさいました!

「以心伝心でしょうか!
昨日、岩手のS子さんに、
『細川ガラシャ(玉)のお墓のそばにホーホケキョの大阪の伯母のお墓があるんですよ。確か10m以内だったと記憶してます。ガラシャはキリスト教の信者だったのにお寺に埋蔵されて、本意ではなかったでしょうね』
とLINEしたばかりでした。東淀川の崇禅寺です。伯母の家から歩いて十分位のお寺です。」
 
細川ガラシャつながりで、そんなことも書いてくださいました。細川家の菩提寺が崇禅寺であったことから、ガラシャはここに収められたのでしょう。
 
約400年の時を超えて、それぞれの時代に色濃く人生の足跡を残した二人の女性は、彼岸で邂逅できたでしょうか?


※画像は、クリエイター・Tome館長さんの「踏み絵」をかたじけなくしました。お礼を申し上げます。