見出し画像

No.1503 下駄、履きますか?

日本列島は、今週、この冬一番の寒波に見舞われそうな気象情報です。雪の景色が大分でも見られるかもしれません。
 
「田捨女」(でんすてじょ・でんすてめ)は、1634年(寛永11年)~1698年(元禄11年)に生きた江戸時代前期の女流俳人です。丹波国氷上郡柏原藩(現、兵庫県丹波市柏原)の庄屋で代官も務めた田季繁の娘として誕生しました。兵庫県の丹波は昔から雪に縁のある土地らしく、昨年12月、丹波市は除雪ダンプを購入したという記事を「神戸新聞NEXT」で読みました。
 
その捨女が、6歳の時に詠んだのが、
 「雪の朝 二の字二の字の 下駄のあと」
という俳句だということを学生時代の文学史で学び、仰天したことを思い出します。
 
江戸時代前期の日本の識字率は、6割を超えていたと見られています。これは、当時のイギリスやフランスなどでさえ3割だという西洋諸国と比べても高い水準だったそうですが、まして、代官まで務めた庄屋の娘です。熱心な子女教育も受けたのでしょう。
 
その捨女の俳句の出典は、江戸中期の伝記集『近世畸人伝・続近世畸人伝』(1790年、伴蒿蹊著、三熊花顛挿画)の『続近世畸人伝』巻三にあります。栢原捨子の名で紹介されています。抄出してみます。(栢原は柏原と同義)

「丹波国栢原(かへばら)、田氏女捨子(でんしじょすてこ)、其家に聟どりして男子五人ありて後、夫死し、たゞちに盤桂(ばんけい)禅師を師として尼となり貞閑(ていかん)と号す。幼より風雅に志有(こころざしあり)。六歳の時、
雪の朝二の字二の字の下駄のあと
といへりしより後、季吟法印にまなびて、はいかいに名あり。」

『近世畸人伝・続近世畸人伝』(伴蒿蹊著、三熊花顛挿画、宗政五十緒校注、東洋文庫202、平凡社、昭和47年1月刊)のp384より

ところが、「丹波新聞」のコラム「丹波春秋」には、

「雪の朝二の字二の字の下駄のあと」。この句を田捨女の作とするのは、「伝説にすぎないようだ」と、朝日新聞の『折々のうた』に載っていた(4月19日付)。この疑問は以前からあり、捨女にくわしい俳人の坪内稔典氏も、「この句を捨女が作ったという確証はない」と述べている。

「丹波新聞」(2006年12月27日)より

という記事がありました。
 
専門家のご意見は傾聴に値しますが、はたして、大人の俳人が「二の字二の字の下駄のあと」という幼い発想の句を良しとして作るものなのか、いささか疑問です。その句が、子どもらしい気づきの歌であるところが魅力だと思うからです。雪の中に書で練習した漢字の「二」の字がハッキリと刻まれ、人の通った踏み跡を目で追っているのでしょう。繰り返しのリズムに歩みのテンポまで思い浮かびます。作者の感動が分かり易く伝わります。
 
6歳の句にしては出来過ぎとの意見も、知的で好奇心旺盛な早熟の子どもがいたとしても不思議ではなかろうと思われます。彼女は、そんなエピソードが生まれるに相応しい子どもであり俳人だったのだろうと想像すると、いささかも句の魅力が失せません。
 
雪の日でも足袋での下駄履きと言うのは、昨今では見られなくなった朝の光景でしょう。しかし、明治や大正の頃までは、和服の人が多かったでしょうから、各地でごく普通の眼前の光景だったろうと思われます。まして、江戸時代では、当たり前の景です。
 
捨女は、後に歌人で俳人の北村季吟に師事したそうです。42歳の時に夫を亡くし、数年後に出家しました。さらに、1688年(元禄元年)播磨国(兵庫県)の龍門寺に庵を構え、妙融から貞閑と改名し後進の指導に当たったといいます。そして、1698年(元禄11年)65歳で涅槃の世界に身を委ねました。今から350年以上も前の俳句にまつわるお話でした。文学史的に言えば、1644年~1691年に生きた俳人・松尾芭蕉と、まさに同時代を生き、駆け抜けた俳人・捨女でした。

因みに前述の『近世畸人伝・続近世畸人伝』の栢原捨子(田氏女捨子)の次の項には、「朝顔につるべとられてもらひ水」の句の作者・加賀千代女が紹介されています。
 

※画像は、クリエイター・Kobayashi muさんの、「双子の雪うさぎ」の1葉をかたじけなくしました。子供の頃、わたしにも覚えのある画像です。お礼を申し上げます。