見出し画像

No.1459 楚々として

今年は夏の暑さのせいか、花の咲くのが遅かった気がします。

曼殊沙華は「秋の彼岸」を教えてくれる花ですが、ご近所さん家の彼岸花は10月に咲き始めました。わが陋屋の猫の額よりも少し広い庭先に、白い花をつける侘助椿があります。例年なら11月には花を咲かせるのに、今年に限って12月に入ってから咲き始めました。

今日の画像は、その侘助の花です。庭師の義父が孫(私の長男)の誕生を祝い植えてくれました。花言葉は、「簡素」「静かなおもむき」「控えめ」などだそうです。

この「侘助」という言葉は、安土桃山時代、茶道の隆盛をみた時期に関係がありそうです。豊臣秀吉が朝鮮出兵した1592年(文禄元年)~1598年(慶長3年)の頃に侘助という人が持って帰ってきたとか、茶人・笠原侘助に因んだとされているようです。

国語辞典の『大言海』(冨山房)には「秀吉の朝鮮戦争のときに従軍した侘助という名の者が持ち帰ったところから」とあり、それを受けてか『広辞苑』にも「文禄・慶長の役の際、侘助という人物が朝鮮半島から持ち帰ったから」という説を採用しています。

一方、詩人であり随筆家の薄田泣菫『侘助椿』には、次のような興味深い記事が書かれています。

 「言ひ伝へによると、侘助椿は加藤肥後守(清正)が朝鮮から持ち帰つて、大阪城内に移し植ゑたものださうだ。肥後守は侘助椿のほかにも、肩の羽の真つ白な鵲(かささぎ)や、虎の毛皮や、いろんな珍しい物をあちらから持ち帰つたやうに噂せられてゐる。」(二より)
 「この椿が侘助といふ名で呼ばれるやうになつたのについては、一草亭氏の言ふところが最も当を得てゐる。それによると、利休と同じ時代に泉州堺に笠原七郎兵衛、法名吸松斎宗全といふ茶人があつて、後に還俗(げんぞく)侘助といつたが、この茶人がひどくこの花を愛玩したところから、いつとなく侘助といふ名で呼ばれるやうになつたといふのだ。」(三より)

本文は、青空文庫『侘助椿』(薄田泣菫)による

泣菫によれば、朝鮮から持ち帰ったのは加藤清正であり、茶人の笠原七郎兵衛が一度は僧になったが、髪を伸ばして俗人に還り「侘助」と名乗り、格別にこの花を愛でたことから「侘助」という木(花)の名が与えられたというのです。
 
 ひそやかに咲く小輪の花で、開ききらぬうちに散り落ちてしまうので、少し夭折めいて感じられます。しかし、楚々として、枯淡を尊ぶ茶人たちに切り花として愛好されるのも故なしとしません。
 
例年、11月から翌年の3月ごろまでの長きにわたって次々に蕾が開く侘助ですが、俳諧の季語は「冬」だそうです。加藤清正が朝鮮の蔚山城(うるざんじょう)から持ち帰り、秀吉も評価した「侘助椿」ですが、「白侘助」は後の江戸時代になって生まれた品種だそうです。1789年(寛政元年)の『諸色花形帖』(江戸時代中期に伊藤伊兵衛が発行した色分け花図鑑)に「白侘助」の名で登場するのが最初だと知りました。それにしても、今年で235年にもなるのですね。

では、清正が持ち帰った椿とは?それは八重椿で、1つの木から白、赤、ピンク、白と赤の絞りなどの八重の花が咲き、「五色八重散椿」だったそうです。京都市北区の地蔵院(椿寺)には、秀吉が1587年(天正15年)10月の北野大茶会の際に地蔵院に寄った縁で、後に八重椿を寺に寄進したそうです。残念ながら初代の八重椿は枯れ、現存するのは2代目だそうです。

「佗助のしづ枝暮れゐる龍安寺」
 俳人・石原八束(1919年~1998年)
石庭竜安寺と石頭亭陋屋とでは比べ物になりませんが、白い侘助椿への思いは何か通じているように思います。