No.575 一日花、それが一日人生だったとしたら
7月に入るとともに、我が家のノウゼンカズラ(凌霄花)の花は終わってしまいました。朝に咲いて夕べには萎み枯れてしまう「一日花」(いちにちばな)だそうです。
一日花の代表的なものには「月下美人」がありますが、年に数回、一晩しか咲かないことから「美人薄命」の代名詞のようにいわれています。ところが、意外にも身近な花々の中に一日花の多いことを知りました。
フヨウ、ノウゼンカズラ、モミジアオイ、アサガオ、ハイビスカス、ツユクサ、月見草、待宵草など、私の知りえた範囲では、夏の花が多いように思われます。暑い陽ざしの中に咲く花だから短命ということなのでしょうか?生き物の自然の摂理である「種の保存」の為に一日しか咲かないと言う究極の選択をしたという事なのでしょうか?
朝顔が一日花だったという事は、鴨長明の『方丈記』序文でも知られます。長明は、無常観を強調する比喩表現として、朝顔の性質を巧みに用いて論述するのです。
「知らず、生れ死ぬる人、いづ方より来たりて、いづ方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。
その主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるひは露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。あるひは花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つことなし。」
(わたしにはわからない、生まれたり死んだり人は、どこからやってきて、どこへ去っていくのだろうか。また私にはわからない、かりの宿りのような家のことで、誰のために心を悩まそうというのか、家の何を見て目を楽しませようとしているのか。
家の持ち主と家とが無常をあらそうような姿は、朝顔の露と同じである。ある時は露が先に落ちて花が残る。残ると言っても、朝日にあたって花も枯れて行く。またある時は花が先にしぼみ、露が消えずに残る。消えないといっても夕方まで残るということはない。)
日本朝顔の開花時期は7~8月頃でしょうが、午前5時前後の朝早い時間に咲き始め、午前中には閉じてしまうといいます。約7時間の開花時間、これが一日花・朝顔の一生です。人間で言うなら、1時間で10~11歳も年を取る勘定です。男性の平均寿命を80歳とたとえるなら、70歳近い私の余命は、僅か1時間ほどしかない計算になります。一日花は、恐るべきスピードでその一生を閉じていたのです。その定めに、恐れを感じてしまいます。
「そんな仮定の計算が何になる?日本は、今や『人生100年時代』と言われる21世紀を迎えているのだぞ。」
と異を唱える方もいらっしゃるかも知れません。しかし、それは限られた人々であり、誰にも当てはまるわけではないのでしょう?しかも、一日花ならぬ一日人生だとして、残りが1時間だと定められたなら、私に何ができるのでしょう?
「明日ありと思ふ心のあだ桜」(親鸞)
いつまでもあると過信しながら生きている自分に気づくのです。それは、常に強迫観念を持って生きる事とは違います。残された時間に何一つ人様から喜ばれる仕事ができなかったとしても、一所懸命に生きることは出来るということです。一日人生を思うことで、「自分を生ききる」ことの尊さを一日花の遺言として聞いたような気がしているのです。
「朝顔の紺の彼方の月日かな」石田波郷
(朝顔の花が咲き、その紺色を眺めていると、この花が咲くまでの長い月日のことを思うことだよ)