No.932 父と子
1975年(昭和50年)に社会科の教師だった父は54歳で病没しました。「直道玄哲居士」の戒名でも想像されるくらい一本気で、自分にも生徒にも厳しい人でした。私が22歳になった年のことでした。
その十数年後、私は大分市で教員として教壇に立つようになりました。ある年の高校1年生の国語の時間に、生徒たちの机の間を歩きながら話をしていた時、男子生徒の机の左隅に1枚の写真が置かれているのに気づきました。
何だろうと思って顔を近づけると、何と父の顔写真でした。えっ!どゆこと? 聞けば、
「母が、高校時代に教えてもらったそうです。苗字を聞いて、『ひょっとしたらと思うから、これを持って行ってごらん』と写真を渡されました。」
との事でした。たいそう有り難く、そして、心憎い気遣いにすっかりやられてしまいました。
また、別の教え子K君は、地方から剣道を志して我が校に入学し、下宿生活をしながら学業に部活動に励んでいました。その子の実家のある日田市に家庭訪問に行った時のことです。K君のお母さんは、亡き父が日田の高校で教鞭をとっていた時の教え子だと語ってくれました。
「厳格な先生でしたよ。私たちは、倫理社会を習いました。難しい話でしたけど、教科書だけでなく、世間話などもよくしてくれました。」
と語ってくれました。
父のあだ名は「パッキン」です。水道の水漏れをしないように締め付けて用いるゴム製品です。生徒を厳しく締め付けたから「パッキン」のあだ名を頂戴したのでしょう。言い始めた高校生の抜群のセンスに賞状を贈りたい気分です。私の渾名は「瞬間湯沸かし器」。面白みも、ひねりもありません。
ただ、親子だったんだなと家庭訪問の時に教えられたのは、私も授業中に四方山話に花を咲かせるタイプだということです。間違いなく、父の子なのだと思い知らされます。
「つまらんところが似よって!」
とあの世で苦々しく思っているかもしれませんが…。
「父に似し汝の鼾や遠蛙」
岩田昌寿(1920年~1965年)