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No.1400 がんばりや!

生き物にも人間にも、「力関係」というものがあります。わが家の場合、「力」のある方が車を使います。

一昨日は雨の日でした。夕方、学校の玄関前でカミさんが車で迎えに来るのを待っていました。同じ雨宿りの玄関先で英単語を覚えながらバスを待つ男子生徒とふと目が合い、声を掛けました。

「いい国だよね、日本は。勉強したくてもできない子どもたちが世界中にいるんだから。」
「そうですね。」
「僕は、昭和生まれだけれど、父も母も祖母も祖父母も戦争体験をしたし、君と同じくらいの若者が戦争に行って命を落とした人もいっぱいいる。奪われた青春だったけれど、君たちは、強い気持ちを持って頑張れば、なりたいものになれるんだ。いい時代ですよ。」
「僕のひーひー爺ちゃんは、シベリアから帰って来たそうです。」
「そうなの?たくさんの人が亡くなったって聞いたけど。」
「身体が凍る寒さだったそうです。『ロシア語が少ししゃべれるようになったので、何とか帰って来れたのかも知れん』って言ってたそうです。長生きできませんでしたけど…。」
と話しているところにバスが来ました。彼は、雨の中をバス停に走って行きました。

太平洋戦争に召集された「ひーひー爺ちゃん」は、何歳で戦地に向かったのでしょう?彼は10代後半ですから、父親が40代、祖父は60代、曾爺ちゃんは80代、曾曾爺ちゃんは生きておられれば100歳を超えていたでしょう。と言うことは、戦争にとられたのは40代、それも後半だったかもしれません。体力は落ち始めていたと思います。
 
ちょっと調べたら、シベリアに抑留された日本人は約57万5,000人で、そのうちの約5万5,000人が死亡し、約47万3,000人が帰還したとありました。不明者も帰還しなかった人もいたのでしょうが、最後の引き揚げ船「興安丸」がロシアのナホトカから京都・舞鶴に向け出港したのは終戦後の11年目だったそうですから、11年間も抑留された人もいたのでしょう。想像しただけで、震えてしまいます。
 
五木寛之『大河の一滴』の中に、こんなことが書かれています。

 あるシベリア帰りの先輩が、私に笑いながらこんなことを話してくれたことがある。
「冬の夜に、さあっと無数のシラミが自分の体に這(は)い寄ってくるのを感じると、思わず心がはずんだものだった。それは隣りに寝ている仲間が冷たくなってきた証拠だからね。シラミは人が死にかけると、体温のあるほうへ一斉に移動するんだ。あすの朝はこの仲間の着ているものをいただけるな、とシラミたちを歓迎するような気持ちになったものだった。あいだに寝ている男が死ぬと、両隣りの仲間にその死人の持ちもの、靴や下着や腹まきや手袋なんかを分けあう権利があったからね」
 しかし、後年、私を自殺から救ってくれたのは、「この世は地獄である」という感覚だけではない。そのような悲惨な極限状態のなかでさえも、信じられないことだが、人の善意というものがあり、正直さも、親切も、助けあいも、ときに笑いも、幸福な瞬間も、自由さも、感動もあったというたしかな記憶である。大人のなかにも、約束を守り、自分の食物を分けてくれる人も何人かはいた。そんな相手に出会ったとき、私は仏さまに会ったような気がしたものだ。
 極楽は地獄のなかに、たしかにあったのである。

『大河の一滴』(五木寛之、幻冬舎文庫、1999年刊)

それでも、彼の「ひーひー爺ちゃん」は祖国の土を踏み、家族に再会が叶いました。「ひーひー孫」の顔を見ることが出来ませんでしたが、相田みつをさんのいう「命のバトン」は、しっかり伝えられ、つながっていました。

ひーひーお爺ちゃん!ひーひーお孫さんは、頑張り屋のようですよ!


※画像は、クリエイター・bonbonさんの、タイトル「野毛【コテイベーカリー】のシベリア」の1葉をかたじけなくしました。お礼を申し上げます。
 この「シベリア パン」の由来には、
「雪原を走るシベリア鉄道のように見えるから」
「断面の模様がシベリアの凍土に似ているから」
「日露戦争の時に考案され、シベリアの地で食べられたから」
などがありました。私も子どもの頃に食べたことがありますが、そんな由来だったとは。