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No.1379 出会いは宝
50年以上も前のことですが、大学時代に、友人のお父さんが急逝しました。埼玉の彼の家に遊びに行き、お会いしたことのあるお父さんは、がっしりした体躯の農夫だったと記憶します。まさに青天の霹靂でした。葬儀に伺い、お別れをした時に、彼が思い出したように言いました。
「なんか、朝からカラスがうるせーなーと思ってたんだ。」
その3年後、私も父の急逝に遭いました。
本当に、そんな訃を予告するような不思議な出来事があるのかどうか、私は両祖父母を亡くし、両親をなくしましたが、そのようなお告げを感じたことはありません。「2B」(にびー=鈍い)の異名を取る私でしたから、気付かなかっただけかもしれませんが…。
昨日もそうでした。「古典講座」を仲間たちと楽しく終えて、バスで帰る途中、同僚から電話がありました。
「メールでお願いします。」
と送ったら、
「先輩のO先生の訃報です。通夜と葬儀の場所と時間をお知らせします。」
とメールが届きました。ギョッとしましたが、その日も、虫の知らせらしいものは、ありませんでした。
O先生は、私より一回り年上です。若い頃は柔道で鍛えたという立派な体格でした。人の話に耳傾けて聴いてくれ、ゆっくりと言葉を選びながら話し、包容力があり人間味のある先輩で、多くの同僚たちから慕われました。退職されて20年近くが経っていました。
退職教員の集いに参加されては、人なつこい顔で目尻に皺を寄せながら久闊を叙してくださったのですが、酒が飲めない反動からか、泣く子も黙る(?)ヘビースモーカーでした。その悪影響で、肺を患っていると聞きましたが、コロナ禍で年に1回の交流会も叶わなくなったので、ご無沙汰続きのままでした。昨日の、いきなりの訃報となりました。
「つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを」
『伊勢物語』の最終段で、在原業平は自らの死期を悟り、そう詠じました。おそらく先輩も「昨日今日とは思わなかった」のではないかと想像し、人の世の哀れを思いました。わたしにとっても、とても他人事ではない思いひとしおの昨今です。
私の勤務校は、2021年に創立70周年を迎えたばかりの私立学校です。私の先輩がたは、「官尊民卑」の根強い土地柄の中で、学校の創業期から私立学校に通う生徒のために「大きな心意気」を忘れず、身を粉にしながら働かれた、敬愛すべき人々ばかりです。
創立55周年の特別企画として、編集委員の一人だった私は、退職された先生方からメッセージを頂戴し記念誌に載せました。そのお人柄を偲ぶべく、寄稿を紹介し、先生に手向けたいと思います。
「出会い
昨年3月に38年間の教員生活を終えました。本校での34年間では、他の職場では得られない数多くの人たちとの出会いがありました。これまで見ず知らずの他人同士であった人が、本校に入学したからこそ、また私も本校の教員だったからこそできた出会いです。
毎年4月には数百人との新しい出会いがありました。初々しい顔で入学して、勉学に励み、専門知識を身につけ、クラブ活動で汗を流し、また多くの友だちをつくり、たくましい顔になって卒業し、各方面で活躍しています。県内ではどこに行っても卒業生と出会います。今でも顔や名前を覚えている卒業生、また科やコースの違いから接触する機会が少なく、記憶に残っていない卒業生もいますが、卒業生は会えば必ず『先生、元気ですか?』と声をかけてくれて、懐かしかったり戸惑ったりします。学校を離れてもつながっている生徒と先生の『出会い』の不思議さと嬉しさを私の財産としてこれからも大事にしていきたいと思います。」
О先生は自動車工業科の教員でした。県内の自動車会社の営業所や整備工場で働く卒業生を多く送り出したことから、その思い出も多く、懐かしさも人一倍だったのだろうと思います。今日は、お通夜が行われます。先生を慕う方々と手を合わせてきます。
※画像は、クリエイター・みれのスクラップさんの「AIイラスト:白菊。献花。白い花。追悼」の画像をかたじけなくしました。お礼を申し上げます。