見出し画像

No.526 寺田寅彦と相撲と

若山牧水が、
「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」
の歌を23歳で詠んだ翌年の1908年(明治41年)5月28日に、東京帝国大理科大学講師だった寺田寅彦は、「東京朝日新聞」に興味ある寄稿をしています。
  
『青空文庫』で、寺田寅彦の作品を読んでいた時に見つけたそのタイトルは、「相撲と力学」というものでした。抄出してみますと、
「相撲は人間の体力の活技で、一方から見れば霊妙な複雑な器械の戦いである、いずれにしても運用する力はいわゆる器械力で、力の作用する目的物は質量を有する物体だから、やはり相撲も力学の広い縄張の中へ入れても好かろうと思う。」
「例えば体量の少ない力士が大きい敵手にぶつかる場合には速度の大小でどれだけの効果があるかという事あるいは敵の運動量を利用して強敵を倒す事など物好きな学者の研究によって明らかになりそうな事である。西洋にはこういう事にも熱心な学者が多く、玉突、テニス、砲丸投等の技術を力学的に研究した例は乏しくない。相撲が特有の国技である以上はどうか我国の学者の研究によって四十八手の力学を明らかにしたいものだ。」
などの記述がありました。
 
東京帝国大理科大学実験物理学科を首席で卒業し、大学院に進学し講師となった寅彦ですが、1908年に理学博士号を取得し、翌1909年には助教授に選ばれています。「相撲と力学」は、その頃に書かれた理学研究者のユニークな発想の提案です。1世紀以上も前に「相撲」に関する力学的考察を研究対象の一つにするところなど、気鋭の学者だと思います。
 
さて、明治41年の大相撲5月場所(東京相撲)は、東両国元町で5月20日より10日間興行されています。「東京朝日新聞」に投稿した5月28日は、まさに5月場所の最中であり、多くの国民に興味と関心をもって読まれたであろうと推測します。
 
実は、明治の文明開化に伴い、1871年(明治4年)に東京府が「裸体禁止令」を発布し、「相撲禁止論」まで浮上したりして、大相撲の危機を迎えた事もあったといいます。これに対し、明治天皇や伊藤博文らの尽力により1884(明治17年)に天覧相撲が行われ、大相撲が社会的に認められるようになったそうです。
 
その1908年5月場所の上位力士とその成績は、東の横綱・2代目梅ケ谷(藤太郎)が7勝1敗1分け、西の横綱・常陸山(谷右衛門)が5勝0敗4休、東の大関・國見山(悦吉)が2勝1敗6休、西の大関・駒ヶ嶽(国力)が6勝2敗1分などとありました。10日目は、全力士「や」とありました。
 
江戸時代から10日制で行われてきた大相撲のようです。今日のような15日制は、1939年(昭和14年)5月場所より取り入れられましたが、太平洋戦争で紆余曲折し、1949年(昭和24年)5月場所から定着したと言います。その理由として、
①力士の人口が増加したこと
②双葉山人気が凄かったこと
などがあげられていました。
 
その1939年の1月場所(その時は、13日制でした)の4日目に、横綱双葉山(定次)は、70連勝をかけて前頭3枚目の安藝ノ海(節男)との大一番で負け(外掛け)を喫しました。その日の夜、双葉山は師と仰ぐ安岡正篤(易学者、哲学者、思想家)に対して、
「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」
という名言を打電しています。一方、勝った安藝ノ海は、師匠の出羽の海に報告しましたが、出羽海は笑顔にはならず、
「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」
と諭したという深イイ話も残っています。
 
その1月場所の双葉山の成績は9勝4敗で終わりました。そして、6年後の1945年(昭和20年)11月に33歳で引退しました。それ以後、今日まで双葉山の記録を超える横綱は現れていないことから、「不世出の大横綱」と称される所以となっています。その双葉山は、相撲協会の理事長も経験しましたが、1968年(昭和43年)に56歳という若さで永眠しました。大分県宇佐市出身の力士であり、名横綱でした。
 
 寺田寅彦の唱えた「相撲の力学を科学的に研究」する試みは、その後、多くの研究者が多方面から分析していることが「相撲に関する研究論文」のデータベース一覧によっても知られます。寅彦は、そんな未来を予想していたのかもしれません。寅彦のあの新聞の記事の年から今年で114年目を迎えています。
 
波乱の2022年(令和4年)の5月場所は、今日で13日目です。ここまで2敗の前頭4枚目の隆の勝か、3敗の横綱照ノ富士か、前頭6枚目の宇良か、前頭12枚目の佐田の海か、はたまた、4敗目を喫している大栄翔や、霧馬山や、栃ノ心や、碧山や、一山本にもチャンスはあるのか、優勝の行方やいかに?テレビの前で釘付けになっている私です。