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No.1382 清六や~い!

年を取ったからか、涙腺が弱くなって困ります。
思い出したように「近世畸人伝」を読んでいます。「近世畸人伝」は、寛政2年(1790年)の刊行で、京都の文人伴蒿蹊(1733‐1806)の筆になる人物奇譚集です。今日ご紹介する清六さんに、やられてしまいました。

「続近世畸人伝」(巻四)
「津和野清六
 石見国津和野城下に、高砂や清六といふ者有。老母に仕へて至孝也。富るにはあらねどもまたいたく貧しといふにもあらぬに、物詣など必母を負て往。竹輿にゆらるゝをおそれて人目をも憚らず。其他おして知べし。しかも生前の孝はなほ類ひあり、母歿して後、年ごとの魂祭に、墓に行て是を迎へ、三日が間是を饗(す)るさま、唯生ル人に仕ふるがごとく、日数限有リて送るに及びては、哭泣して堪(へ)ざるがごとし。近隣の児輩などは、ことしも亦清六が涕泣を見んとて集まるに及ぶと、其郷人浦子承の話也。夫(れ)神を祭リて在(る)がごとくするは、聖教に教るところ、五十にして父母を慕ふは大舜の至れりとする所、僻境の卑夫も中心の誠に出るもの、おのづから聖道に愜(かな)へるは、感ぜざるべけんや。」

『近世畸人伝・続近世畸人伝』(東洋文庫202、平凡社、昭和47年1月、P414~415より)

意訳にも程がある迷訳をしてみますと、
 「島根の津和野城下に、高砂や(屋?)清六なる男がいた。老母に孝行を尽くしていた。金持ちでも貧乏でもなかったが、寺社に参詣参拝の折は必ず背負って行く。竹を編んだ輿の乗り物は揺れるからである。それ以外の孝行は言うまでもない。母が亡くなって後、毎年の御魂祭には、お墓に参ってお迎えをし、三日の間これを饗応する様子は、目の前の生きている人に奉仕するがごとく、また三日が経って御魂を送る段になると、声を上げて泣いた。お墓のある近隣の子どもたちは、『今年も又、清六が大泣きするのを見に行こう!』とやってくる始末だと里人たちが語ったと言う。そもそも、神様をお祀りして、目の前にいるように振る舞うのは聖人の教えであり、よわい五十にして父母を慕うのは、(『二十四孝』中の孝行息子)大舜(中国伝説上の聖人)もそうであり、片田舎の男でさえも心の誠として尽くすことは、仏の悟りの道に適っており、感動せざるを得ない。」
とでもなるのでしょうか?

それにしても、亡くなった母を愛しみ、墓前で人目もはばからず声を上げて泣く孝行息子で愛情深い清六の話を読むにつけ、今は亡き祖父母や父母へのわが祈りの心のほどや、信心のほどが反省されて、不覚の涙をこぼしてしまうのです。彼は、その名のごとく、心清く、清々しい男でした。
 


※画像は、クリエイター・和子(23)🌿🕊️さんの、タイトル「母の意見@お墓」の1葉をかたじけなくしました。お礼申し上げます。今年は暑さの影響からか、彼岸花が咲き遅れ、最近になって開花しているようです。