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No.542 初めの一歩が、私のコラムのすべてでした。

元号が「昭和」から「平成」に改められた1989年、
「何かを始めるなら、この時を置いてない。」
という思いにかられ、その年の4月8日から毎日学級通信を始めました。毎号、コラムも載せました。私は36歳になっていました。

「高校生相手に、学級通信でもなかろうに…。」
という揶揄もありましたが、毎日発行し続け、3カ月が経ち、半年が経ち、1年が経つ頃には、そんな声は聞こえなくなりました。15年目の2003年(平成15年)1月23日に通算5,000号を達成しました。

何社かの新聞記者が記事にしてくれましたが、なぜか、スポーツニッポン新聞の記者からの取材もあり、面白い経験をしました。
「素晴らしいことなので、興味をもってやってきました。」
福岡から訪れてくれた50代の記者は、相好を崩してそう言いました。お人柄のお陰で会話が弾み、楽しい時間を過ごすことができました。

「スポニチ」と言えば、スポーツや芸能の分野を得意とする新聞だと思っていましたので、
「教育関連の私の記事なんか、紙面のどこに載せるのだろう。」
と後になって不安がよぎりました。もしかしたら、おじさま族を悩殺するような姿態の水着の写真のお嬢さんの隣で、鼻の下を長くした私の顔写真が載っていたらと想像すると、何だか耳たぶまで熱くなってきます。その上、そんなところを教え子や友人や家族・親戚が見たとしたらえらいこっちゃ!等と妄想が止まりません。

「六分の恐怖と四分の好奇心」を抱いた『羅生門』の主人公(下人)とは逆に、「六分の好奇心と四分の恐怖」を抱いて過ごしておりましたら、2月15日号に記事が載りました。
 
全国紙や地方紙が、500字から800字ほどの記事だったのに、スポニチは、なんと1000字を超える太っ腹の扱いです。しかも、最後は、こんな記事で絞めてありました。
「さぁ、目指すは1万号。先生、スポニチからもダメ押しです、あとに引けませんね。ご健闘を祈ります。」
私は、この時すでに49歳でしたから1万号は不可能なのですが、「最後までやり遂げよ!」というエールだったのだろうと有り難く受け止めました。
 
因みに、この日のスポニチは、私の記事のとなりに水着の悩殺美女の写真はなく、下段に、
「宮城(県)の赤豚が、黒豚の聖地(鹿児島)へ」
という見出しで、餌をはむ赤豚の写真が私よりも大きく載っておりました。
 
2014年(平成26年)3月末に60歳で定年退職する時、私の新聞の最終号は、7,658号に達しておりました。「1寸の虫にも五分の魂」、こんな私にも少しは意地があったことがわかり、感無量でした。
 
退職後は、コラムだけを書き続けました。6年後の2020年(令和2年)11月4日、1万号を成した時、スポニチの記者のあのエールを思い出し、続けた事への矜持と、続けられた事への感謝が沸き起こりました。同年12月6日より、コラム発表の場を「note」に移し、今日に至っています。こんな私にも、読者がいて下さったおかげで…。