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No.1506 珈琲、プリーズ!

「狂歌」とは、江戸時代中期以降(1700年代)の流行り歌で「短歌と同形だが、滑稽・洒落・風刺を含んだ遊戯的な和歌」を言うそうです。『万葉集』の戯笑歌や『古今集』の俳諧歌の系統の「戯れ歌」だと言われます。

江戸時代中期から後期にかけて生きた狂歌師・太田蜀山人(号は南畝、狂名は四方赤良。1749年~1823年)は、嫡男が病気になったために、70歳を超えても支配勘定(勘定奉行配下)の役職にあって働き続けたといいます。ところが、登城の際に転倒した傷がもとで1823年(文政6年)に享年74で没したそうです。

その辞世の歌は
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
だったと伝えられます。「あまりにも人間的」な本音を詠んだこの歌は、平安時代の六歌仙の一人在原業平(825年~880年)の『伊勢物語』最後の歌、
「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」
を踏まえたとされます。そして、蜀山人自身の最期さえも狂歌にしてしまいました。
 
ところで、コーヒーが日本に伝わったのは、いつごろでしょうか?
「江戸時代に日本へ伝わったコーヒー」として、

1689年、大淀三千風が長崎見物の様子を書いた本の中で、「なんばんちゃ」として紹介した『長崎見聞録』が、コーヒーについての最古の記録です。

レファレンス共同データベース「レファレンス事例詳細」にあり

という記述がありました。

実は、太田南畝も、後にコーヒーを味わうことになった一人です。彼が1804年(文化元年)に長崎奉行所に赴任したその年の随筆『瓊浦又綴(けいほゆうてつ)』の記述に、大変興味深い記事があります。大分県立図書館で、蜀山人全集『新百家説林三』を読みました。その六百二十五頁に、

「紅毛船にてカウヒイといふものを勧む 豆を黒く炒りて粉にし 白糖を和したるものなり 焦げくさくして味(わ)ふるに堪(へ)ず」

蜀山人全集『新百家説林三』P625

とありました。「南蛮茶」は「焦げ臭くて飲めたもんじゃねえ!」とのご意見です。

今から221年前のコーヒーも苦かったようですが、慣れると味わいも変わって来たのでしょうね、きっと。1853年のペリー来航よりも半世紀も早い珈琲来航でした。
 
ところで、「珈琲」の字は江戸時代末期の津山(岡山)藩医で蘭学者、宇田川榕菴(ようあん、1798年~1846年)によって考えられたとされています。

「珈琲」という字はオランダ語のkoffieに漢字をあてただけではなく、「珈」は女性の髪につける玉飾り、「琲」は玉飾りの紐の意味があり、枝に連なる真っ赤なコーヒーの実を表していると言えるでしょう。西洋植物学にも精通していた榕菴だからこそ、この字をあてることができたんですね。

「ココシル津山」の「宇田川榕菴と珈琲」より

ネットの「ココシル津山」の「宇田川榕菴と珈琲」から学びました。お洒落な命名ですね。

私は、南蛮茶党の端くれの一人ですが、苦みも味わいと思えるようになりました。
 
「青春の苦き珈琲ゼリー食む」
 成田郁子


※画像は、クリエイター・ともしびさんの「写真2022年五月〜六月」から「コーヒーゼリー」の1葉をかたじけなくしました。大学の近くにあった喫茶店を懐かしく思い出しました。お礼申し上げます。