見出し画像

No.1416 正座するもの

新聞の「おくやみ」欄を見ます。80代から90代の方が多いようですが、中には60代、70代の方もいます。私は71歳です。今まで人生の季節は「秋」だと考えていましたが、むしろ「冬」を迎えているのだぞと教えられるような気がします。

物忘れに磨きがかかります。台所で、鍋ややかんに火をつけたら、それが出来上がって火を止めるまでその場を去ってはいけないことを肝に銘じています。ついさっき点火したことも忘れてしまうからです。冷や汗の出る体験を一再ならずしている懲りない男です。

頭のてっぺんから爪先まで、オールド・オールダー・オールデストです。
フサフサだった髪は、何の未練を見せることもなく、スルリと風呂場の排水溝に吸い込まれていきます。雨が降ってきたことを頭のてっぺんで感知できるようになりました。

「目には蚊を耳にはセミを飼っている」
第11回「シルバー川柳」(2011年)で大阪府の中村利之さん(当時、67歳)が詠んだ句ですが、その兄貴を慕うように、私も目の中にアメーバのようなものが浮遊していますし、今年に入って耳の奥で不快な電気信号のようなものが鳴り続けています。静かな朝や夜など、特に気になります。
 
右の臀部から足先にかけてジンジンシとビレが来ることもあります。左ひざは階段を上がる時に痛みます。長く歩く事や、登山は出来にくい状態です。あんなに元気だったのに…。
 
尾籠な話ですが、オシッコが近くなって慌ててトイレに飛び込むことも、間に合わずに赤ん坊よろしくお漏らしすること(ちょっとだけよ!加藤茶とは、意味が違うか?)があります。落語の「転失気」の世界を追体験するかのようにオナラが「今日も生きてますな!」といきなり人の居る時に代わりにご挨拶に及ぶこともあります。まことに締まらないお話で、赤面のトホホのホです。
 
「老いるとはこういうことか老いて知る」
2014年(平成26年)9月「第14回シルバー川柳」の東京都の女性の入選句や
「なってみりゃあの年寄りは偉かった」
2002年(平成14年)2月「第1回シルバー川柳」の神奈川県の男性の入選句が私にはしみじみと実感として伝わってくるのです。やえーこっちゃ、ありません!
 
先日、増田れい子さんのエッセー『独りの珈琲』(三笠書房・知的生き方文庫)を読んでいたら、こんな話が書いてありました。

 ひまひまに縫っているようなのだけど、その針目がね…と、友達は口ごもるのです。
「何だか、とってもあらいの。母は、こんな仕事、いままでは決してしなかったわ」
 お茶をのむ仕草にも、ふっとかげがよぎります。友だちは、お母さんの針目の中に「老い」を見たのでしょう。
 少しずつ、いのちのいきおいが弱まってくる。それが間違っても強まるということはない。それが、人の「老い」なのだと思います。それを、身近な人のなかに、動かし難く見出すのは、誰しもつらく悲しいことです。

『独りの珈琲』「時について」211ページ

なるほどなと思いました。『独りの珈琲』は1985年(昭和60年)の出版で増田れい子さん(1929年~ 2012年)が56歳の時のエッセーです。1991年(平成3年)に毎日新聞初の論説委員となられたその頃に、生徒たちと一緒に教科書に載った増田さんのエッセーの感想を送ったことから長いお手紙と本を頂戴するというご縁を頂きました。その増田さんも、2012年(平成24年)に83歳で旅立たれました。
 
私も周りの人の中に「老い」を見ていたわけですが、今や自分自身の「老い」を身体だけでなく精神的にも感じています。それは恐れでもあります。森村誠一氏(1933年~2023年)は、
「『余生』を『誉生』にするために準備をぬかりなくすべきである」
と唱えられたようですが、「残生」いかにすべきか、心の隅に問いが正座しています。
 
今朝も身に染む寒さです。


※画像は、Tome館長さんの「言の葉」の1葉をかたじけなくしました。1枚の枯葉が、その姿で雄弁に自分を語っているようです。お礼申し上げます。