No.1419 ゆれる心
放課後、部室前や校舎内のトレーニング室前に部活生が靴をそろえ、踵を部屋の方に向けて脱いでいるのを見ると、気持ちよく思います。
指導者の教えで、そうするようになったのか、自分たちで率先してそうするようになったのかは分かりませんが、整然と並んだ靴に、平生の心がけというハッキリとした意思を見るからです。
先に紹介した、増田れい子さんの『独りの珈琲』(三笠書房)「靴のぬぎ方」で、こんなお話を綴っておられました。
この本は、1981年(昭和56年)刊です。今から43年も前のお話です。もうこの時の女主人が御存命かどうかわかりませんが、女将さんは叱り上手であり、お客さんも叱られ上手だったと思います。脱ぎ散らかした靴を黙ってそろえるのが、もてなす側の無言の心遣いだとせずに、「マナー違反は、ご遠慮されたし!」と声をあげる凛とした女主人の態度は、まわりを納得させるものであり、お店の評価をあげるものになったとも思います。
こんなとき、京都の言葉の、ちょっとオブラートで包んで険の立たない物言いに、鄙の人間の私からするとジェラシーを感じてしまいます。きつい言い方をしながらも、優しい言葉遣いなのです。だから、お客さんも、自分たちの気遣いの足りなさを恥じて反省し、素直な気持ちになれたのでしょうか。
もう15年にもなると思いますが、中学説明会に多くの保護者が参加してくれました。その中の一人のお母さんが、ガムを噛みながら話を聞いていました。それは、その人の平生の習慣だったのかもしれませんが、地方の私学に対する保護者の驕りのようなものを感じ、私は黙っていられませんでした。
公衆の面前で本人を直接非難することはしませんでしたが、エチケットの例を挙げ参加者全員に是と非の振る舞いをお互いに気を付けられる関係でありたいと訴えました。説明を終えると大きな拍手をもらい、私の中の緊張と不安が杞憂に終わったことを知りました。
ささいなことも、普段からの心がけの表れだと思います。トイレのスリッパも、購買部での順番を待つ並びでも、部屋に入る時の靴の並びも、そこに「心」を感じます。教えているようで教えられる生徒たちの当たり前の姿が、爺の心を掴みます。
一方で、叱られ下手な子供さんが増えている印象を持つのは、私だけでしょうか?伝わらない心のむなしさを感じることもないではない、気に入らなければサッサとそっぽを向いて心も耳も閉じてしまう、そんな事もあります。「育て、育つ」ことの難しさと、それゆえの面白さのはざまで揺れる心もあります。
※画像は、クリエイター・和田のりあき/マジックパパさんの「玄関に並んだ靴」の1葉です。玄関に、子どもたちの心を感じます。お礼申し上げます。