No.524 「物忘れの木」小考
その昔、物忘れを抑える働きとしてコーヒーが有益だというTVの番組がありました。書道の墨と同じように、コーヒーを飲まなくても匂いを嗅ぐだけでリラクゼーション効果があるとの説のようです。
「焙煎はできるだけ深くした方がよさそうです。眠気覚ましに飲むのなら通常のコーヒーを、そのほかの時間帯はデカフェにするなど、カフェインを摂りすぎないよう飲み分けるとよいです。そしてブラックがお勧めです。砂糖やクリームは極力避けましょう」
慶應義塾大学のT先生は、科学的な分析の後、そのようにまとめられました。
「コーヒーを飲むと物忘れを忘れられるなんて良いですね!」
と反応したリポーターの言葉に、ふと、
「物忘れしないようにと思う気持ちの方を忘れさせられてしまったら、物忘れは進んでしまうかもな…。」
などと皮肉な発想をしてしまう自分が、われながら恥ずかしい…。
しかし、その発想には、ちゃんとした下敷きがありました。それは、大学4年生の夏休みのある日、下宿でラジオを聴きながら本を読んでいた時の事です。聞こえてきたのが、歌手ヒナステラ(アルゼンチン人)の「物忘れの木の歌」でした。
「貴方への思いで死にそうなので、貴方の事を思わないように、『物忘れの木』の下に横たわり、ぐっすり眠った。でも、眠りから覚めると、再び貴方のことを思っていた。そうか、私は、貴方を忘れるということの方を忘れたのか…。 横になって直ぐに …。」
そんな意味だとパーソナリティーが意味をゆっくり読み上げてくれました。
「物忘れの木」が忘れさせたものは、「忘れたいもの(苦しい恋心)を忘れさせる」ことではなく、「忘れたいと思う気持ちを忘れさせる」ことだというパラドクス。なかなかオシャレな発想です。
考えてみれば、今にも死にそうなくらいの恋心なのに、好きな人の事を忘れようとしても容易に忘れられるわけはありません。「物忘れの木」を擬人化した粋な計らい(?)だとその時に思いました。今から50年近くも前の話なのに、その話だけは強い印象を残し、ずっと忘れずに覚えているのです。
先日、「物忘れの木の歌」とネットで入力してみたら、田中勢津子さんという声楽家が、スペイン語(?)で歌っていました。哀切に訴えかけるような、それでいて力強さのあるその歌を聴いていたら、エアコンもなかった、あの夏の日のことが懐かしくよみがえって来ました。