
62 典圜局(近代的貨幣鋳造所)とATM
62番の続きです。「尊敬する孔子さまが蒸気機関にういて触れることがなかったから、学ぶ必要がない。だから関心などない」と言ってましたね。僕はこれを「始原志向的思考」といいましたが、朝鮮王朝はこのような認識の社会だったわけです。100歩譲って、植民地収奪論が主張するように「やる気があったのに」といえるでしょうか。そんなはずがないという強力な証拠を披露したいと思います。これでも植民地収奪論者たちが堂々と日本の収奪説をいい続けるか問いたいと思います。
高宗が特に悪いというのではなく、高宗のみではなく当時の朝鮮民族はみんなこのような認識世界でした。到底近代化の芽生えができていたとはいえません。
高宗は財政事情が悪すぎたから、「見栄だけは張りたい」と切に願うタイプでした。国の財政事情は非常に不安定でした。そのため、王自らが百姓相手に高利貸しをしていたし、売官売職を重ねていました。時代を少し飛びますが、1900年の報告によると、
「158万両は7箇所に殖利銭としてあずけてあるが、必要なときは即回収できる」(「国史編纂委員会」所蔵典圜局長李容翊による公式文書)
「1900年2月末現在、典圜局には81万元あり。13万元は松都(*今の北朝鮮の開成)の人参畑の購入費にあて、69万元残る。そのうち、朝鮮人参製造費50万元を全額典圜局の金で支払う。人のお金は1元も借りてない。・・・麻布を購入し、朴昌善の家に預けた。次に、人参を支給販売する必要あり、数日をすぎると値段が下がる可能性があり、心配だ」
といっています。ひどいですね。でも、当時の王の高利貸しは中国の皇帝も同じことをしていたらしく、朝鮮の王が学んだ手法と思われます。注目してほしいのは2段目記事の3行目の「典圜局のお金で支払う。人の金は借りてない」という部分です。
典圜局とは朝鮮初の近代式貨幣鋳造所です。朝鮮は王土国家なので、朝鮮の土地や百姓は王の所有物でした。自由気ままに奪ったり殺したりすることができました。しかし、貨幣を作る技術も基盤もかなり弱かったし、発想もなかったので日本政府が大阪製銅会社社長の増田信之が出資によって設立されました。これが結果的には大失敗するので、増田が損害賠償を請求します。増田は67万5千円を請求しました。1884年に744円の切手代金も2年間払えなかった王に67万5千円?偽札で払う以外は到底払えるような金額ではありませんでした。哀願します(多分)。15万2千円を先に払い、残りの9万2千円(日本貨幣で8万2千円と銀貨1万円)を払い、残りの6万円は貨幣治金を抵当とし、3週間の支払猶予を与えて支払うと契約していました。情けないですね。賠償金を全額払ったかどうかは確認できません。多分、払いきれなかったと思います。

1840年頃から王室の財政が困窮していました。王宮には「明禮宮」(王室の厨房に食材を調達する機関)がありました。明禮宮の収入は宮房田(王室の田畑)の地代と供上(王からの下賜金)でした。 1840年頃の明禮宮の財政はほぼゼロ状態でした。借り入れが増える一方でした。
日本政府の働きかけにより1883年に新貨幣造幣局の典圜局を作りました。高宗は相当喜んでいたと思います。自宅に性能の良いレーザープリント機が入ったので、お金をいくらでも刷れたからです。

王と王妃にとって典圜局は魔法の杖でした。いくらでもお金が刷れたので、典圜局で刷った貨幣を自分のポケットに入れたわけです。いくら日本政府が助言しても高宗の頭には「近代国家の基礎づくり」が何を意味するのかすら理解できてませんでした。

紙幣は日本の第一銀行券でした。紙幣を印刷できる技術も経験も全くなかったからです。典圜局は仁川港近くにありました。仁川からソウルまではやはり距離があります。遠すぎます。重い銭をソウルまで運ぶのに人夫による運搬費用が6720元50銭でしたから、一体どれくらいの人夫の行列があったのでしょうか。人夫の費用も嵩む上、安全上の問題と管理体制などが結構面倒くさかったので、今の大統領府がある龍山に移転しました。

大変です。1904年の6月7月の例を見ましょう。高宗は典圜局鋳造額の何と98.45%を自分のポケットに入れる離れ業を披露してしまいました。1.55%は一体何故残してますか?隠れて新式ハンバーガでもたべたかったのか?銅貨を運ぶのはやはり大変です。高宗は1900年8月16日に訓令を発表します。「紙幣がいいな。紙幣が使い勝手がいいから前もって銅貨を紙幣に替えておくように!」と明禮宮にいいます。一言でいうと典圜局は王個人の要望に答えるための機関で、もっぱら明禮宮の経費を作るところでした。植民地収奪論者たちに改めて聞きます。朝鮮の王の認識から「朝鮮の近代化」のかすかな香りでも感じられますか?
朝鮮の高宗は、当時は普通だったかも知れませんが、実にけしからない存在でした。
最初のスライドを見てください。1900年度の王による高利貸し(殖利銭)の金銭の元金が何と典圜局から刷った金だったわけです。し

この人間の欲望むき出しのKドラマは2025年今日の韓国でも変わらず大々的に展開していますね?残念ながら腐敗も腐敗経済も伝統文化なのです。45の記事で書きましたが、元検事で弁護士と牧師、そして眼科医がそれぞれ突然「建設会社社長」になっている奇怪な現象もその原型は高宗の典圜局の利用の仕方に求めることができると思いませんか?
三上豊氏は典圜局の管理運営のため派遣された役人です。三上豊さんだけでなく、目加田(下の名前を忘れました)氏も「王府の予算と国の予算を分けるべきだ」としきりに注文しますが結局はだめでした。王に収奪論者たちを喜ばせるような功名心や国を良くしたいという気迫などは微塵もありませんでした。あるのは私利私欲の塊だけでした。元ソウル大学の李泰鎭さん!!これでも高宗を理想の王といえますか?あなたはそれでも歴史学者ですか?
