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79 国際化もいいけど、覚悟が?

  中国の元留学生からまたも食事会の誘いを受けました。ありがたい。この学生は僕の指導学生でもなかったのに、中国での結婚式に僕を招待してくれました。指導教員は招待もせずなぜか部外者の僕を招待してくれたので、中国本場での結婚式を見てみようと行きました。一言でいうと盛大そのものでした。この学生の夫も元留学生で二人ともしょっちゅう僕を招待してくれます。今は大手病院で勤務していて、中華系の患者たちの面倒を見ています。今は多分、課長かな?彼女の結婚式には職場の同僚たちも数名来ていました。結婚式の最後には病院の同僚たちが感動的なビデオメッセージを作ってくれていたので、多分職場内での付き合いも上手と思います。人間関係がいいということでしょう。

 一方、今日のニュースではタイ人2名と日本人の合計5人が太陽光発電の動線を盗んで、売り飛ばしていたというニュースが飛び込んできました。なぜ仏教国の人間がこんなことをするかと嘆くのは安易な疑問でしょうか?432メートルを盗んだ、しかも通りかかりの通行人が動画を撮っているのに黙々と電線を切っていました。平然を装っていたのでしょうか。で、盗んだ動線を購入したのが中国人でした。


盗物を購入した中国人社長

 実にけしからない外国人犯罪グループですね。

 僕は、「国際化」を主張する人に必ず聞いてみたい論点があります。なんでも西洋人の真似をすれば自然と国際化になるはずでもないので、むやみに国際化と主張してほしくないと思うことが多々あります。なんであなたが日本の国際化を心配するのか?誰から頼まれた?といわれると静かに引っ込みますが、国際化を万能の杖のように主張する人たちをみると心が穏やかにはなりません。
 国際化とは「覚悟が必要」と思いませんか?国際化を主張すると結果的には、銅線を盗みこれを買う外国育ちの「クズ」たちも入る、この人たちをどのように処理するか(国外追放、再入国禁止)の「覚悟」が必ず必要でしょう。
 鄧小平が「窓を開けると新鮮な空気も入れば、蝿も入る。蝿が入るのが嫌だから窓を締めたまま暮らすか」といった話は実に説得力があったと思います。しかし、僕は今の中国の部分的な閉鎖政策は中国に取っては「好ましい選択」と思っています。門戸を開放するけど、「中国らしい開放政策」を取るという姿勢・態度に「主体性」が感じられます。中国に行くたびに結構理不尽・不便な目には会ってしまいましたが僕は「中国らしい」と理解するようにしています。
 世界の人口の約25%が住んでいる大陸だから、日本のように開放すると国にそのものが維持できないでしょう。だから、中国の「部分的な開放政策」は多少不便で理解できない面もありますが、「妥協できる範囲」と考えるようにしています。中国の「選別的な国際化」(僕の勝手な用語ですが)があるからこそ、中国色がより色濃く残るのではないかと思います。中国国内での外国人の犯罪にも中国は厳しく対処している方でしょう。麻薬犯罪なら外国人でも例外なく「死刑」にする例からも、中国の姿勢が感じられます。決して「無理な国際化主張」と迎合せず、独自の路線を維持しているのは評価できる点と思っています。

 国際化を主張する人に僕が質問したいのは、「日本人が100%国際化するとは」どういうことだろうか?仮に「100%国際化済みとなると日本に住む必要・必然性があるのか」と是非を問いたい気持ちにならないでしょうか?100%国際化となってしまったら日本の文化の独自性の意味が維持できるでしょうか?

 昔、ラジオで聞いた例えを紹介させてください。狭い路地にラーメン屋が3店舗あるとします。1軒は「世界一美味しいラーメン屋」で、2軒目は「日本一美味しいラーメン屋」で、3軒目が「この路地で一番美味しいラーメン屋」があります。さて、どちらのラーメン屋が一番美味しいでしょう?個人の好みがあるじゃないかと喧嘩を売るような質問はやめてください。僕は「この路地で一番の店」を選びます。そういう主義です。
 無理に国際化を主張する大学教員に僕は必ず意地悪な質問をします。「なぜ、国際化が必要か?」まず、この「地域で貢献でいる人材を育てる方が先なのでは?」といいます。この地域で認められない人材が海外で感がれるはずがありません。あると思いますか? ローカルな社会で貢献できない人間が、世界で頑張れるはずがないでしょう。

 今の日本の国際化(もちろん韓国でも同じでしょうが)を唱える声には「魂」がないと感じてしまうのは僕だけでしょうか?銅線を盗み、盗物を買い占める腐った人間が日本に溢れる前に超法規的な厳しい決断をしてほしいと強く思います。超法規的とは法規定を超える処分を意味します。それが「政治的な決断」というものではないでしょうか?


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