②心の内鍵(高校生のための大学案内)
今この文章を読んでくれるであろう高校生の皆さんを思い浮かべると、僕の高校時代を思い出さずにはいられません。日々の勉強、ご苦労さま!今日は、筆を止め教科書を閉じ、しばらく僕からの手紙をお読みいただければ幸いです。僕の短い文章から、日々の勉強を頑張っている人はもちろん、様々な悩みを抱えている人にも、一息ついてもらえるために「斜めからの思考」の断面の味わってください。
僕の専門は文化人類学です。文化人類学?聞いたことないな!と思っているとすれば、チャンスです。今回は、「聞いたことがない」学問分野から、「聞いたことのない一風変わった話」を紹介しますので、少しばかりお付き合い願います。紙面の制約があるのでここで文化人類学の紹介は控えなければなりませんが、「人間と社会のなぜ?」について研究する人文科学といえます。兄弟分野に社会人類学というのがありますが、これは社会科学として主に社会構造や組織(会社など)などの研究をする分野です。もちろん、社会構造や組織も人間の営みの結果でしょうから、研究者の関心がどちらに重きがおかれているのかによって、自分の専攻をどちらかに名乗ります。
僕は自分が専門家の間では社会人類学者として紹介されるのを望んでいますが、一般向けには「文化人類学者」として自らを紹介します。それは一般的には文化人類学の方がより馴染みの深い名称と思われるからです。
文化人類学の特徴を一言でいうと「ありとあらゆる偏見と戦う学問」といえます。味噌汁が美味しいとか、腐りかけている魚の臭いはキツイとか、これが美しいとか、おかしいということが、全て「主観的で恣意的な好み」つまり偏見だというスタンスで物事を考えていくのです。主観的で恣意的な好みとは、絶対的ではなく、価値判断に実証的な根拠が伴わないということです。
唾が汚いわけは
例えば、絶対的に万人に「美味しい」と思わせる食べ物は世の中に存在しません。「汚い」も同じです。我々は「汚い」ものを見ると、すぐ「あっ!汚い!」といいますが、なぜ私たちは汚いものを汚いと認識できるのか、やや哲学的な問いから入ってみたいと思います。「汚い」といわれるものに(絶対的)実体があるのではなく「自分が汚いと思うから」(つまり、恣意的な判断)、「汚い」と感じてしまうわけです。では、汚さには何の実体がないのに、なぜ私たちは「汚い」と感じてしまうのでしょうか?それは言葉があるからなのです。
難しいですか?例を上げてみますね。人類学者のメアリ・ダグラスは「汚さの正体」について唾を例に見事に説明しています。
実験してみましょう。まず、手を綺麗に洗います。洗ったばかりの綺麗な自分の掌に、唾を吐いてください。「今すぐ吐き出された自分の唾を飲み戻しなさい」といわれたらどうでしょう?!殆どの人は「汚い」という感じてしまうでしょう。でも、考えてみましょう。唾の成分が瞬間的に変わったわけでもなく、刹那の瞬間に空気汚染されたわけでもないはずなのに、私たちは「汚い」と感じてしまうのです。今出された唾は各自の口の中に直前まで溜まっていた新鮮な唾なのにですね。
でも、出された自分の唾が「汚いから飲めない人」でも、恋人とのキスの時は平気だったりします。つまり、自分の唾は汚いといって飲み戻せないのに、他人の唾を舐めることには全く抵抗がないのです。矛盾してません?この一瞬私たちの無意識の中で何かが変わるのです。
では、一体何が変わったのでしょうか?唾の成分は何も変わってないはずですが、私たちの意識の中で何かが変わったのです。その何かがどのように変わってしまい、何がそうさせているのかを研究する分野が文化人類学でもあるのです。答え合わせは後に回して、もう一つ。
鼻毛も同じです。鼻毛が鼻の中にあるときは誰も「汚い」と感じませんが、鼻毛が伸びてきて他人の目に触れると「汚い」と感じてしまうのです。この際の汚さの正体は「長さの違い」なんですね。つまり、私たちは、「汚さに実体があって万人に汚いもの」と受け止められるのでなく、本来の「プロパーな場所」と決めつけている場をほんの少しでも離れると「汚い」と感じてしまうのです。髪の毛も頭についたいるときは何も感じないのに(むしろ綺麗と感じるのに)、頭を離れて落ちてくると「汚い」と感じられ、私たちは嫌な気持ちを味わったり平常心ではいられなくなるわけです。この「しかるべき場所」というのが文化によって異なるわけで、それは他ならぬ言葉による分類の結果にほかなりません。
ここで敢えて主張しますが、皆さんが考えていること「すべて(例外なく)何の実体もない」のです。あるのは言葉による線引、つまり「分類」のみなんです。ある状態が汚い状態で、ある状態が綺麗な状態というふうに。
このような分類を可能にするのが他ならぬ言葉であるわけで、言葉に関する関心が人間科学の根幹といってもいいでしょう。新約聖書の「ヨハネの書」の第1章第1節も「始めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった」と始まります。「創世は神の言葉から始まった」というわけです。アリストテレスの哲学(BC330年頃)も言葉(ロゴス)を絶対視する考え方から始まっています。
言葉には私たちが考えているより、はるかに深奥かつ重要な意味が隠れていて、僕は「人間を知るための暗号」と言っています。
言葉と意識の誕生:肩こりの起源
ここでは、私たちの日々の意識について考えてみたいと思います。
結論的に述べると、人間の意識は言葉を介して生まれます。つまり、「言葉があるから意識でき、言葉がなければ意識することができない」ということですが、これは大変重要な発見でした。日本人には「肩こりがひどい」と訴える人が少なくないが、肩こりの原因は必ずしも生理的な現象とは限りません。人類学的にいうとそれは、他ならぬ「肩こり」という言葉(概念)があるからといえます。「肩こり」という「言葉」(概念)を持たない韓国人や中国人、アメリカ人などは「肩こり」を意識することができないので、肩が凝らないわけです。というよりは「凝りようがない」のです。韓国生まれの僕は「肩こりとはどんな感覚なのだろうか」と想像したりするだけで経験することはできないもどかしさを感じたりします。某民放の番組に調査依頼してみたいと思ったこともありました。
しかし、日本人も昔から肩が凝ったわけではありません。日本人が肩が凝り始めたのは夏目漱石が「肩こり」という言葉を生み出した後から肩が凝るようになったというのが定説です。夏目漱石は小説『門』の中で、
「指で圧(お)してみると、頸(くび)と肩の継目の少し背中へ寄った局部が、石のように凝(こ)っていた。御米は男の力いっぱいにそれを抑えてくれと頼んだ。宗助の額からは汗が煮染(にじ)み出した。それでも御米の満足するほどは力が出なかった。」
と表現したのが始まりと言われています。
小説『門』の発表が明治43年(1910年)ですから、2015年の今年は「肩こり誕生105周年」ということになります。由緒深い歴史をもった病気の誕生です。肩こりの例を見ると、病気とは存在するのではなく、誕生する(発見する)ものと理解することができます。実際このような新たに誕生した病気は枚挙に暇がないほど存在しています。
一方、韓国には「ファーピョン(怒り病)」というのがあります。怒りを抑えきれず、あまりにも悔しくて徐々にうつ状態に陥り、やがて死に至ることもある心の病です。これはもちろん「ファーピョン」という言葉があるから病症化(概念化)されるもので、この言葉を持たない日本人はファーピョンで死ぬことができないのです。
このように、特定の文化にしか存在しない病気を「文化病」(Culture bound Syndromes)といいます。ちなみに「対人恐怖症」という病名は「日本で命名された(日本生まれの)数少ない病」(岸田秀)といわれています。筆者は「対人恐怖症」のことをイギリスの留学生に説明するのに大変苦労しました。いくら説明しても結局「なぜ普通の人が怖いのか」が理解してもらえない様子でした。
話を戻しますが、このように言葉が意識を生むのです。「言葉があれば意識でき、言葉がなければ意識できない」というのは重要な発見です。単純に図式化すると、100個の言葉を持っていれば100個の意識が生まれ、10000個の言葉があれば10000個の意識が生まれるということです。当然、言葉の数が多い人が意識できる量が多いので、世の中では「賢い」と評価されやすいのでしょう。要するに、語彙が豊富であればあるほど意識する(できる)世界も広がるということです。言葉の成長を邪魔するテレビやゲーム機の節度ある使用が必要なのはいうまでもありません。
僕は本職において「貧困と格差研究」もしているのですが、2012年、ある市民向けのシンポジウムで「貧困と格差問題」と言葉の関係について講演したことがあります。その時に、パネリストの一人に県の福祉行政に長年携わった方から「貧困家庭の育ちで、非行に走る若者たちのほとんどが陳述書が書けなかった」と言っていました。同様の意見は、学習障害・集中障害・低学力の子供たちに共通に見られる現象なのです。学校現場の最前線で頑張っている教員の方からも同様の話を聞くことが多いです。学習不振に苦しむ人と語彙の貧弱さには相当の相関関係が認められます。
語彙の少ない人にとって、日々の授業とは「字幕のない外国映画を見ている」状態によく似ていますでしょう。 言葉(語彙)が少ないと当然意識できる世界も狭くなるので、字幕が読めない映画を見ている学生が眠くなるのも無理もないでしょう。十分理解できます。むしろ、言葉もわからないのに目をキラキラして集中してみている方が異常なのではないでしょうか。
さらに、例をあげましょう。
イヌイット(エスキモ)は雪に関する言葉が60種類以上あるといわれます。研究者によっては、100個以上とか、400個以上(サピアとウォーフ)という学者もいます。これは、雪そのものに関する言葉を一つしか持たない日本人には「どうしても同じようにしか見えない雪」でも、エスキモにとっては雪の結晶の形や湿度、吹雪の同伴とその組み合わせなどで、60以上の「異なる雪」(別物)として認識されるのです。つまり、エスキモの人たちは、雪に関する豊富な語彙のゆえに、トナカイの餌となる苔が残っているところを真っ白な大雪原の中で探し当てることができるのです。
同じようなことは砂漠の民ベドウィン族にもいえます。ベドウィンは砂漠に関連する言葉が3000種類以上あるといわれ、その語彙の豊富さゆえ砂漠においても道に迷うことなく自分(部族)の井戸の場所に最短距離で辿り着くことができるのです。
また、フランスの人類学者でヤノマミ保護団体を主催しているナポレオン・シャノン
によれば、アマゾン最奥地のジャングルに住んでいるヤノマミ族は、ジャングルに住んでいながらジャングルという言葉を持たず、その代わりに木々や草のほとんどに名前をつけていたといいます。語彙の豊富さゆえに、わずか10歳ほどの子どもが一人で30キロほど離れた村に滞在していたシャノンさんに伝言のために訪ねたきたことに驚きを隠せませんでした。
以下のような例はどうでしょうか?人類学者の岩田慶治さんがラオスの山岳民族の村を訪ね、「山の絵を書いてください」と頼んだら、皆が虫や草の絵を描いてくれたそうです。日本人が連想する尖った三角形の山を描いてくれた人は一人もいなかったのです。つまり、「山岳民族」といわれている彼らにはYama(山)という言葉がないため、山に取り囲まれていながらも「山に住んだ覚えがなかった」ということです。
以上の事例は何を意味するのでしょうか?言葉と意識の関係を如実に示してくれる実例のほかなりません。このような例は、地球上で枚挙に暇がないほど例示することができます。
ここで、最初の話に戻りましょう。
精神分析のフロイトは「人間は自分自身の精神の持ち主ではない」と主張し、言語哲学のヴィトゲンシュタインは「言語の限界が私の限界」といいました。また、言語人類学者のサピアとその弟子ウォーフは「言葉が思考を縛る」点を力説し世界的な支持を集めています。人間は自分の言葉の檻の中で生きるしかないように運命づけられているといえるのです。檻といえば、夢枕獏さんが「陰陽師」で「世で最も短い呪いは名である」といっていましたね。名言です。
フランス語の mouton (羊)は英語の sheep(羊) と同じ意味を持っていますが、その価値は同じではありません。フランス語のmoutonとは羊とその肉、両方を意味しますが、英語の場合は、羊(Sheep)を屠殺して食卓に乗せると名称が変わります。羊の肉はmuttonとなるわけです。つまり、音による分節(言葉)が異なるということは、「違う価値のもの」として認識されるということです。フランス語ユーザにおいては、羊は生きた状態でも肉の状態でも価値が変わらないのに、英語の使い手には「価値が変わる」という意味です。
ここでなぜ、「分節」という表現を使ったか説明していきたいです。それは、言葉とは他ならぬ「音の分節」の産物だからです。記号学のソシュールは「音に差をつけ、ものと結びつけた」のが「言葉」と定義しました。これをひとまず「分節」と言っておきますが、分節は二項対立的に生まれるといいます。男と女、昼と夜のようにです。(文字数により、省略可)
言葉と実体:「女」と「男」も存在しない。
世の中に「女」「男」というのが実体として存在しているのかいえば、これにも「ノー」と答えるしかいありません。高校生の皆様!あなたたちは自分が「女」「男」だと思っていますでしょう?こんな当たり前の質問にも、人類学者の斜め思考を披露してみましょう。例えますが、女子高生が「女」として生まれたわけではないはずです。しかし、成長し言葉を得ていく過程で自分を「女」と分類し、女の実践項目(か弱い、可愛い、ピンクのリボン、赤いスカートなどなど)を一生懸命「取り入れた」人のみが初めて「女」になれるのです。哲学者の鷲田清一は「女は『女装』によって女になる」といいましたが、中々含蓄味のある指摘といわざるを得ません。しかし、女装だけではありません。マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』に、主人公のスカーレットが舞踏会の支度をしている時に、マミという黒人奴隷のお手伝いさんが次のようなアドバイスをします。「淑女は小鳥のように小食しなければなりません。人前でパクパク食べてはいけませんよ」と。
女の子は、例え大食いであっても、人前では「食が細い」ことを周囲にアピールする必要があるというのです。このように、朝起きたらスカートにするか、ズボンにするか?リボンをつけるかつかないか? 女の子は、転んだら痛くなくても「痛い痛い!」と泣きながら「か弱い女」を演じなければならないのです。服の色はピンクにするか赤にするか、髪の毛を結ぶかしまいか?などなど一生懸命「女装」し、「女を演じ」「女を実践」することによって初めて「女になりえる」わけです。この「女の実践項目をより多く充実に取り入れた女」が「女らしい女」になるわけで、男も「男装し、男を実践し、演じること」によって初めて男になれるのです。
このように、言葉による分類で「女」と「男」になるわけです。この分類のズレが性同一性障害として表れるといえます。菅直人総理の奥様が、カメラの前で泣く「元総理」に対し、「泣く男は行けませんね」と揶揄したのは、泣くという行為が他ならぬ「男の実践」に違反しているからでしょう。
このように私たちは、言葉の分類に従い、女を演じ男を演じているに過ぎないわけです。みんなは徹底的に自分の言葉に縛られ、分類に従い、役目を充実に「演じている」に過ぎないのです。教師を演じ、夫婦を演じ、いい隣人を演じていた人が、ある日突然犯罪を起こし逮捕されると「あんな立派な人が・・・」と驚きを隠さないのも、普段の「演技」からは想像できないからなのでしょう。
何が言いたいかいかというと、男と女が「実体として存在する」のではなく、「実体がないにも関わらず、言葉の分類(分節結果)に従い、(項目の実践により)男と女として作られていく」ということを強調したいのです。全てがこのようにして成り立っているわけです。
言葉は常に裏返し意味を含む
言葉が分節の産物というならば、全ての言葉には分節された後の残りの部分(母体、つまり言葉とは裏腹の意味)が前提となります。コインの両面のように。
「アフリカ大自然の旅」とはツーリストのキャッチコピーですが、当のアフリカには「自然」という言葉がありません。地球の肺といわれるアマゾンのジャングルの諸部族にも、インドネシアの熱帯雨林やトラジャ社会にも「自然」という言葉がありません。つまり、「自然」という言葉がない社会には「自然」が豊富で、「自然」という言葉を持っている我々の社会においては、もはや「自然」がない(失われている)ということです。言葉による「分節」(切って分けた)とは、切り分ける前の前景としての下地(風景)があることを前提に、そこから「切り分けた」ということを意味します。部族社会の多くは、自然と人間が分節されず、つながっているため、「あの茂みには精霊がいるから恐い」という信仰が成り立つといえます。言葉が存在するということは常に「切り離された前景」つまり、反対の意味を同時に含んでいるといえます。
では、「幸せ」とはなんでしょう?気付かれましたか?そうなんです。我々が真に「幸せ」になるためには、「幸せ」な状態を「分節する必要がないほど平等な社会」を目指さなければならないでしょう。「幸せ」という言葉をもたない社会の人々のみが「真の幸せ者」になれるのであって、「幸せ」という言葉を持ってしまった私たちには、「幸せ」とは夢見る対象にすぎないのです。せいぜい「あの人に比べて幸せ」という裁量的な判断しかできないでしょう。「幸せ」という言葉をもたない社会があるかって?もちろん、いくらでもあります。
虐めにあって登校拒否の子どもに、「学校に来て!皆の学校じゃないか」というけれど、それは「(いじめられているあなたのための)学校ではない」ことを意味し、「友だち一〇〇人つくりましょう」ということは、「真の友だちは一人も作れないけどね」とことを意味します。難しいでしょうか?では、これはどうでしょう?「幸せは不幸の中、不幸は幸せの中」。言葉は常に反対の意味を併せ持つ!これ重要です。
自分を変えるということ
自分(他もそうですが)を変えるためには言葉による「分類」を変えなければ何も変わりません。言葉を成長させ、語彙を豊かにすると共に、今までの分類に固く縛られることなく、柔軟な思考ができることがこれからの時代にますます重要度が増すでしょう。
しかし、自分にとって「自然で当たり前の分類」を変えることは決して容易いことではありません。記号学者の加賀野井秀一さんの表現を借りれば、言葉の鍵は「内鍵」であって、外からは決して開けることができないのです。教員は、言葉の海へ飛び込まず、心の内鍵を固く閉めている生徒の前で「開け!ごま!」を繰り返し唱えることしかできないのです。心の内鍵を開け豊かな言葉の海へ飛び込むか、閉めたままにするかは生徒一人一人の意志に関わっています。まさにイソップがいったとおりです。馬が水を飲もうとしない限り飲ませられないですから。
大学で何を学ぶか?
大学とは「大学でしか学べないものを学ぶところ」と理解すれば、自ずと答えが見えてくるのではないかと思います。簡単に言いますと、「高校生が想像できないものを学ぶところ」が大学と思えば間違いないでしょう。高校生の皆さんは18歳もなると、「世の中の大体の仕組みがわかってきた」と思っているはずですがどうでしょう。このような「詳しく知らないのに、わかったつもりで平気でいられる」人を養老孟司さんは「バカ」といいました(『バカの壁』)。もし、みなさんが大学進学を考えているなら、ぜひとも人文科学の豊かな海に飛び込んでみてください。水深の浅いところでは美しい熱帯魚が泳いでいるのが見られるでしょう。深い海には入りますと、見たことのないグロテスクな生物を大量に見つけることもできるでしょう。
とはいっても、人文科学は万人が選択できる分野ではないのです。なぜなら、人文科学は「人が見ようとしないのを見、あるいは人が直視できない事実について語れるようになることを目指す学問」であるためです。したがって、窮極的には人が考えられないことについて「学問の想像力」をフル稼働してその実現に至らしめる学問であるわけです。だから、人文科学を勉強するということは、「楽な道・人生」を敢えて選ばず(最初の選択とせず)、真実と真理をがむしゃらに追う不便な道のりをあえて歩くことができる信念と勇気に支えられた人に向いている学問なのです。世俗的な成功のみを優先的に追い求める人々のための学問ではないといえましょう。
しかし、人文科学が世俗的ではないからといって現実と遊離されているとは決していえないでしょう。人文科学は現実を直視し、その直視による苦悩の結果が現実の改善改革につなげられる学問である点を決して忘れてほしくないと思います。このため、人文科学は他のいかなる学問よりも現実的でもあるのです。
さらに人文科学が他の学問よりも優れているのは現実適応力です。それは、人文科学が現実を批判的に捉えながらも現実の問題点を克服するための代案が提示できるからです。ただ、漠然と空想するのではなく根拠に基づいた想像力を発揮し現在を克服できる能力を養う分野なのです。 ノーベル文学賞作家の大江健三郎は「現実世界を変革していくための力として想像力の役割」について論じたことがあります。実際、大企業の総合職の採用には「人間力」が問われるので、人文科学をしっかり勉強した人が受かりやすいのです。実際そうですが。
巷では、人文科学のことを「女の子の嫁入り学問」と見なす向きがあるようですが、人間の関する関心がすべての学問の基礎となっているはずです。社会も組織も、結局そこに住んでいる人々の取捨選択の結果でしょうから、人間の研究がベースにならざるをえないでしょう。人文科学は、昨今の学力低下やいじめ問題、更には貧困と格差の問題について、もっとも深く正しい診断ができる学問分野であると信じています。人生の良い答えが得たいのであれば、良い答えを導き出せる的確な質問能力を養う必要があるはずでしょう。良い質問能力は人間に関する限りない愛情と関心から得ることができるのです。