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ルーブル美術館でロマン主義を鑑賞する(動画No. 17)
こんにちは、お菊です。今回は、超有名美術館であるルーブル美術館にスポットを当てたいと思っています。既に解説はたくさんあると思うので、ここではアートではわかりづらい概念である「ロマン主義」がどのようなものであったか、当時の時代背景を絡めながら追ってみたいと思います。
ルーブル美術館概要
世界三大美術館の一つに数えられる大美術館です。先史時代から19世紀初頭までの作品が収蔵されています。これ以降の19世紀の作品はセーヌ川向かいにあるオルセー美術館に、さらに新しいものはルーブル美術館から徒歩圏内のポンピドゥー・センターに収蔵されています。
他の美術館との兼ね合いと、オトクなチケット
パリは多くの美術館でユース割が充実しています。ルーヴル美術館の場合、EU圏在住18−25歳入場無料。圏外在住でも25歳まで金曜夜無料です。うまく利用してくださいね。
パリはいろいろな美術館が順番に曜日を変えて深夜オープンしているので、他の行きたい美術館も合わせて夜の開館時間をチェック!たくさんの美術館に回る人は、ミュージアムパスもチェック!
アクセス
中心地のパリ1区にあるので、美術館はすぐ見つかると思いますが、入口が4つあります。最も有名なガラスのピラミッドがある入口はとても混雑します。時間予約か、朝イチでの訪問でない限り、帰りに寄るのがいいでしょう。穴場はテュイルリー庭園とルーブル美術館の間に位置する地下のショッピングモール、カルーゼル・デュ・ルーヴルから直結する入口。あまり目立たないので比較的混雑していませんし、マクドナルドがあり休憩できるのもポイント。大美術館訪問は、長距離歩くので相当体力使いますが、地上のお店はわりと遠く、観光地価格ですからね。ただ、同じチケットで再入場はできないので、鑑賞中の食事は美術館内のカフェを使ってくださいね。
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複数の地下鉄駅から徒歩圏内
オルセー美術館、ポンピドゥー・センターも見えます。
ロマン主義台頭の背景:社会の変化
19世紀初頭に台頭したロマン主義は、当時の社会変化と密接に関係しています。
産業革命による社会構造の変化: 18世紀から始まった産業革命は、機械化と工場制度の発達をもたらし、都市が急速に発展しました。この過程で労働者階級が形成され、新たな富の集積が起こりました。
ブルジョワの台頭: フランス革命 (1789-1799) によって、それまで貴族や教会が独占していた権力が崩れ、ブルジョワ(中産階級)が台頭しました。彼らは経済力を背景に社会的地位を高め、新たな価値観を社会にもたらしました。
フランス革命による政治的混乱: フランス革命は、王政の崩壊、恐怖政治、ナポレオンの帝政など、激動の時代をもたらしました。これらの政治的混乱は、人々に既存の権威や社会制度への疑問を抱かせました。これらの社会変化は、人々の価値観や思想に大きな影響を与えました。
自然への回帰: 機械化や都市化が進む中で、人々は自然との調和や素朴な生活への憧憬を抱くようになりました。ロマン主義は、自然の美しさや偉大さを強調することで、この時代の感情を反映しました。
個人の感情の重視: 啓蒙主義の影響で理性や合理性が重視された時代でしたが、ロマン主義は個人の感情や感性を重視しました。既存の社会規範や芸術の形式にとらわれず、自由な表現を追求しました。
既存の権威への抵抗: フランス革命や産業革命は、人々に既存の権威や社会制度への疑問を抱かせました。ロマン主義は、王政や教会、アカデミーなどの権威に挑戦し、個人の自由や創造性を尊重しました。
このように、ロマン主義は、産業革命、フランス革命、そしてブルジョワの台頭といった社会変化を背景に、新しい時代精神を表現した芸術運動です。実際に起った事件を描く画家が多かったことも特徴です。
作品紹介
メデューズ号の筏
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Théodore Géricault
1818-19
491 cm × 716 cm
作家のジェリコーは、ルーアンの弁護士の家に生まれ、6歳のときにパリに移り住みました。17歳で画家を目指したときは、父は失望したそうです。
メデューズ号は、1810年進水したフランスのフリゲート艦です。インド洋モーリシャス、インドネシア、カリブ海などナポレオン帝政下、世界各国で活動しました。ナポレオンは1815年に失脚し、復古王政の時代となりました。
1816年、メデューズ号はイギリスからセネガルの返還を受けるために20年以上船から遠ざかっていた船長指揮で出発します。しかし、速度を出しすぎ位置を間違え、モーリタニア沖で座礁してしまいます。
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当時のフランスの影響力の大きさがわかります
座礁したのがPinのあたり
メデューズ号には400人乗っており、250人がボートに、150人弱が筏に乗って脱出するも、ボートと筏はほどなくして乖離。13日後に救出された生存者はわずか15名でした。政治による人災とされ、復古王政に大打撃を与えました。
ジェリコーはこの事件の生存者にインタビューをし、筏を実際に作り、病人を観察し、生首をスケッチし、友人のドラクロワのポーズを模写するなど綿密な調査の元絵画を完成させました。
このスキャンダルを表現したジェリコーは政治的な批判を受けました。3度の落馬が原因で1824年に32歳で夭折。現存する作品は5枚だけです。既存価値にとらわれない絵画はフランスロマン派の先駆けとされました。
キオス島の虐殺
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Ferdinand Victor Eugène Delacroix
1824
ギリシャは紀元前2世紀までは栄華を誇りましたが、ローマ帝国の支配下に置かれて以降、ビザンチン帝国、オスマン帝国の支配下に置かれ、2000年ぐらい独立できていない国でした。
1789年フランス革命以降、ギリシャで独立運動が本格化します。1812年露土戦争などの影響もありオスマン帝国の力が衰退する中、1820年ギリシャは独立を宣言しました。
これを受け、1821年ギリシャ独立戦争開始。1822年、オスマン帝国領のキオス島にて虐殺が発生します。ドラクロワはメデューズ号の筏に影響を受け、この戦争が始まった当時から戦争をテーマにした絵画を描くことを計画します。1824年、絵画が完成しました。
活字での報道しかなかった当時、この絵は世論に衝撃を与え、フランスやイギリスがギリシャ独立支援に動くきっかけとなりました。1830年トルコからの独立が合意に至り、1832年ギリシャは完全に独立しました。
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キオス島は赤点線で囲われた島で、かなりトルコ寄り
ギリシャ領になっています
民衆を導く自由の女神
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Ferdinand Victor Eugène Delacroix
1830
この絵画のテーマは1830年のフランス7月革命です。フランス革命を描いてると間違えがち!ドラクロワは年が変わる前に描き終えました。
夭折した友人のジェリコーからロマン主義を受け継ぎ、ドラクロワはロマン主義を完成させたとも言われます。
この革命は市民側の革命であることから、作品もロマン主義の代表格の作品とされます。中央にはフランスを代表するシンボルの女性、マリアンヌ。La liberteなので、厳密には自由の女神ではなく、自由(女性名詞)。帽子はPhrygian Capでこれも自由を象徴するようになりました。
この絵は、1999年に日本に1ヶ月間貸し出されたこともあるそうです。代わりに法隆寺の百済観音像が貸し出されました。
今ではマリアンヌは国の擬人化に使われることもあります。
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国の擬人化に使われることも
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(左)マリアンヌ (フランス)
(右)コロンビア (アメリカ)
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(左)アンクル・サム(アメリカ)
(右)ジョン・ブル(イギリス)
グランド・オダリスク
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Jean Auguste Dominique Ingres
1814
作者のドミニク・アングルは、ロマン主義の少し前の新古典主義のトップの画家でした。18歳もドラクロワより年上で、ドラクロワがロマン主義で台頭し始めた頃にはすでにサロンで有名で、王立アカデミーの院長でした。
アングルは、新古典主義にトップとして、どうすれば成長できるか疑問を持っていました。成長するために新しい視点を取り入れるべく、意図的にバランスを崩した本作品を発表します。当時のパリは、近代化により美意識が変わり、ファッションが解放的になった時代でした。
しかし、作者の意図は評価する人には伝わらず、古典的な価値を引きずる批評家には思い切り不評でした。背骨の数が間違っているとも言われました。現代でもYouTuberが過激になっていくのは表現したいこととウケることが違うからで、今も昔も変わりませんね。
まもなくドラクロワが「キオス島の虐殺」「民衆を導く自由の女神」などを発表し大ヒット。立場もあってか、ドラクロワが王立アカデミーに入ることを20年も拒否し続けたといいます。
終わりに
いかがだったでしょうか。有名な絵ばかりで、あえて私が再解説する必要性も乏しいような気もしますが、現地ではなかなか解説を読むのも大変なのでこういう形も悪くないのかなと思っています。もちろんこの美術館には他にもたくさんの作品がありますが、それらはまた次の機会に・・・