漂流するこころ 8
そぉっとドアを開ける
珈琲の香り
彼がいるのだろうか
牛乳とパンとバター、ピスタチオ、ビール、ミネラルウォーター、パプリカ、レタス、生ハム、チーズ
それらが入った袋を腕にかかえ、後ろ手にドアを閉めた
珈琲の香りで彼の存在を確信したが、それはもう、ただの錯覚でしかない
誰もいない部屋
ガランとした四角い虚
ベッドルームの白いシーツはあの日の白い光に真っ二つに裂かれたまま
珈琲ミルから微かに香るキリマンジャロ
玄関に脱ぎ捨てたパンプスのヒールが、孤独に耐えかねて傾き、崩れる
落ち着いて考えよう
そう
こころをとりもどさなければなるまい
庭のローズマリーの木のそばで、オオルリが鳴く
清く、美しく、そして、気高く
まずはシャワーを浴びて、着替えよう
その船乗りに会うために
ギリシアの彫刻のように、頬の影はさらに鋭く、眼は黒く、髪はしゅるりとくねっているに違いない
ピスタチオはその緑が映えるように黒い器へ
生ハムとレタス、カリカリベーコンのサラダ
バゲットを切り、
そこで、
滴
洗った髪の、拭い残したシャワーの滴が落ちた
落ちてゆく滴にわたしが映る
滴は、フローリングに届き、撥ね、わたしが無数に砕ける
その、一瞬の永遠
そこにある、こころに会いに行かねば