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私は何者か、605


もし、それが本当なら良い。でも、なんの根拠もない、うそっぱちなら。けれど、その二つの間になにがある。たいした差はない。むしろ、うらおもて。信じることは自分のため。信じないことも自分を守るため。判断などという難しい選択ではない、瞬きくらいの軽さで、ほらね、瞬きだって、軽いかどうか。感じ方や受け取りかた、好きや嫌いで、世界は成り立っている。だから、できるだけ触れないでおこう。そして、放っておいてはくれまいか。そんなこと言ったって、外界からの供給で成り立っているのだから、仕方ない。って、そこで、妥協するのか。

嘘で。たとえば、欺かれたとして、私たちはすぐに、はいはい、わかりました。なんて、本音ではそうであっても、そんなふうに簡単に片付けられないのである。どんなに抗っても、無理である。そうであっても、認めず、あがく。むしろ、悪あがきである。

傷は浅いぞー、しっかりしろ。なら、いいが。傷が深い時、どうするか。がっかりしろと言うのか。助からぬことを覚悟しろと言うのか?



虚像を結ぶ眼の悪戯。

それも真実で。

いや、むしろ、わたしの目の前をゆく、ちいさく微かな兆候は、真実である。わたしを欺くはずなどない。なぜなら、それは、私自身であるから。


己に欺かれるのなら、なにも問わないし、問う意味もない。


己こそが、我に問われるための生を歩くのである。



けふ彼と繋ぎし指の細く白く蜜蝋細工の人生歩く



わたしは何者か。


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