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私は何者か、600


前の職場の近くを通った。みたことのある、いや、当然、知ってる人に会う。
何をしてたんだ、何処に行ったんだ、何があったんだー。と、懐かしい笑顔に、寒さよりなにより嬉しさが募る。

探したんだぜー。あっちもこっちも、探し回ったんだ。あちこちで聞いたりもしたんだよ。いま、あの部署は全然しらない人たちしかいなくなってるんだね。びっくりしたよー。良かったよ、いま、会えて。不思議だ。何やってるんだよー。

涙が滲む。いやいや、ここで泣いたらあかんって。

でも、

これはなんだろう。


少しずつ、重ねてきたものが、目には見えないけれど、わたしを押し上げる。ずっと昔の夢のように、死せる者たちがわたしをずんずん押し上げる、生きねばならぬと。無理にとは言わぬが、行けよ。振り返らずに、行け。と。


こうもセンチメンタルになるのは何故だろう。あぁ、最後の月だからか。12月という、おしまいの月だからか。最後といふは初めがあろうや。そうだ、なんのことはない、また、はじまるといふのだから。

なにも、なんのけりもつかぬまま、終わり、はじまるといふ。

何度目のはじまり。何度目のおしまい。我らの髪は風になびき、その川の橋の袂で寒いけれど、幸せなゆふぐれに、未ださよならもできず、抱き合うこともできず、続いてゆく事柄の端々を掴むこともできず、夢に見たそのリボンの行方を指でさぐりながら、ふと、触れたものがもう二度と会うことも叶わぬ光輝く時間のなかの我らであったとしても、また、その身をかわし、逃れ、隠れ、何もなかったような顔をして、けれど、こころから我らの有り様を愛し続ける。見つめるといふことはすでにそこには我らはいない。我らはとっくに、その見つめる先にいるのである。実際、我らはこの世のほかのものであるのか。

水清く我の手のなかに君があり君の心に我は棲みたる


今日、少しだけ、気の利いた良き仕事がこなせたことに、我は、浮かれている。


こんなふうに、過ごせたならば、それこそが、我のためでもあり、ひとのためでもあるのだと。


幸福である。


聖夜とか、いふらしき。


わたしは何者か。



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