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私は何者か、609



今日、彼のやさしさに、驚いて、周りをちらと見ながら、もう一度スマホを覗いてみた。間違いない、彼は、迎えに行ってやるよと。わたしの職場の飲み会。しょうもない事柄ではある。私自身あまり行きたくないけど、付き合いね、所謂。そんなことは、百も承知で、迎えにきてくれると。ビール大好きなんやから、飲んだらええ。って。これは、惚気とか、そんな、次元のことではなく、人として、信頼とかいうものの範疇かと。信頼を互いに差し出し、そして、細く、短い命のうえを歩いているのか。それならば、襟を正し、こう告げよう。探していたものが、此処に、あると。

長い間、得られなかったものが、すでに身体をやさしく包んでいる。知恵も勇気も金も、そんなのぜーんぶ、いや、全部差し出していたら、わたしは生きてはいまい。けれど、精魂を傾けていた、神の前で誓った相手は、そんなことは言わなかった。比べるものではないと、わかってはいても、要するに、これが信頼ではないかと。互いに、差し出すべき相手への心情は、それほどに美しいものなのではないかと。誓い合った相手とは、心としての、なにも得られず、また、得るものなどないと。そう思って生きていた。


飲み会のお迎えって。

はーっ、ですか。


でも、それは一部であり、また、すべてなのです。


人のために、動くこと。

人のために差し出せるもの。

そのわがままとも言えないような、かわいい甘えなるものにせよ。許されて生きるのはある意味恥ずべきことのように感じて、生きてきたの。わたし。

そして、そのまま、何十年も生きていた。おかしいおかしいと感じ、それでも、何にも言えなかった。

自分のために生きることは、その人のために生きることである。

互いを差し出し、互いを頂く。

そこに、疑いなどない。


彼は言う。幸せな人生を生きてきたんやで。って。

ある意味、自身を貫いて、それでも余りある、今日この時である。

いつだって、正直でいられたことの、幸福。

それよりなにより、此処まで生きてきて、こんな展開。まさに、十一面観音様。みたいに、どの面を。いや、そして、どの面も、わたくしである。


noteで温めてもらい、彼に、真髄を教わり、人に助けられて生きているのです。


長々し夜をひとりかも寝ん


一人寝るのは、寂しいものよ。


生きていてよかったと。


問うては、答えよ、生きること。


わたしは何者か。




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