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書きたかったのは「時を越えて気づくやさしさ」

先日行われた、note × Panasonic主催のコンテスト「#やさしさにふれて」の受賞者発表

数多い素晴らしい応募作品の中で、ありがたいことに私の書いた「背伸びして手をのばした、あの日の花束」がグランプリをいただいた。

グランプリ以外の賞を受賞された方々の作品も読ませていただいたけれど、どれも異なる「やさしさ」にふれていて、その素晴らしさは多種多様。10人いれば10通りの「やさしさの感じ方」があるというのを実感した。

私の書きたかった「やさしさ」

恐れ多くも、いただいた書評をそのまま引用させてもらいます。

「時間差のやさしさ」というテーマの独自性と、軽やかな文章のバランス、読後感のよさで、この作品がグランプリに選ばれました。
「やさしさを次につないでいく希望が見えました(岸田さん)」「今度小さい子が背伸びしていたら、きっと花束を渡してあげるんだろうな(春名さん)」「読んだ人が自分をふりかえるきっかけになれる作品(阿部さん)」と、審査員からも高い評価を得ました。

ありがたすぎる書評。頭が地に着く想いで読ませてもらった。
その中で「時間差のやさしさ」というテーマにも触れていただき、自分が伝えたかった事を汲み取っていただけて嬉しく思う。

「やさしさにふれて」という課題で、私がテーマとして選んだのはまさしく「時間差によって気づくやさしさ」
やさしさっていろんな形があるけれど、受け取ってすぐに気付けるやさしさばかりではない。
もらって気分が良い・居心地の良いやさしさもあるけれど、対語と言っても過言ではない「厳しさ」が潜んでいるやさしさもある。
相手が嫌な気持ちになることはわかっていても、言ってあげなきゃいけない事を伝える。それも、まごう事なき「やさしさ」。

私はズルい人間なので、そういうやさしさを与えることが苦手だった。だからこそ、そういう類のやさしさに気づく事も苦手だった。
だれかに厳しく叱られた・叱ってもらえた時も、相手への苦手意識が嵩むだけでそのやさしさの本質にふれようともしてこなかった。

でも1年、3年、10年くらいしてふと気がつく。あの時言ってもらえた事で今の自分があることを。
そしてあの時投げかけられた厳しさは、まさしく「やさしさ」だった事を。

それは親だったり、先生だったり、様々。
どの人もきっと「今は」わかってもらえると思って言ってなかったと思う。
やさしさの手紙は時を越えて、言われた本人がわかる時になってやっと届く。刺さる、と言った方が今風かもしれない。
そんなタイムカプセルの様な節がある、と私は感じている。
そのタイムカプセルを開ける時には、与えた人はもう横にはいないかもしれない。もっと言えば、一生開かず「嫌味な人だ」と終わられるかもしれない。それなのに投げかけるその厳しさは、これ以上ないほどの「やさしさ」だと思う。

時間差で気づくやさしさ

この時間差で気づくやさしさをnoteに落とし込もうと決めた時、自分の経験したどのエピソードを選ぼうか悩んだ。
親からのしつけ?先生からのお叱り?
友人の忠告や、先輩からの叱責?
いろんな思い出が絡まる中で、私が選んだエピソードは「小学生の頃に出会った花屋さん」の思い出。
この時の花屋さんのやさしさに潜んでいたのは、「厳しさ」ではなく「餞別」だった。

あの日の花屋さんだって、そのやさしさの餞別に子供たちが「今」気づくことを期待していたわけではないと思う。
10年経ち、20年経ち、子供たちが大人になった時に、その花束を次の世代に渡せる様になるまでの、長い長いタイムカプセル。
私はあの思い出があるから、若い人に何度だって花を贈りたい。

そんな想いで書いた「#やさしさにふれて」。
たくさんの方に読んでいただき、栄えある賞までいただいて感謝しかないです。ありがとうございます。
あのハッシュタグに続くたくさんのみんなのnoteが、だれかの未来に届くやさしさのタイムカプセルになりますように。

よろしければ受賞note読んでいただけると幸いです↓
https://note.com/oki_soroe/n/n708629a4ae9a



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