#ジオログ05|飽くなき探求心を隠岐から世界へ。環境と人の架け橋となる。
はじめに
今回取り上げるのはNPO法人隠岐しぜんむらの福田 貴之(ふくだ たかゆき)さんです。2023年で移住9年目を迎える福田さんは「ふっくん」の愛称で親しまれ、島を歩けばあちこち声をかけられます。それは環境教育のインストラクターやネイチャーガイドとして日々忙しく活動し、子供から大人まで幅広く隠岐の自然のこと・保全のことを伝える活動に貢献してきたからこそ。
隠岐の自然を「むっちゃ面白い!」と評する福田さんの目線で、「自然と生きること」をもう一度考えてみませんか。
学生時代から環境学を学ばれていたということですが、どのような経緯で隠岐しぜんむらの職員になったのでしょうか?
僕の経歴は少し珍しいかもしれないな。高校を卒業した後は、動物看護師の資格を取るために専門学校に通ってた。その際に海外実習としてオーストラリアに行ったことがあって。当時から保全活動に関心があったのでコアラ保護区を実習先に選択したんだよね。3カ月の実習期間だったんだけど、住むうちにオーストラリアをすっかり気に入っちゃってさ。ここで学んでみたいって思ってそこからまたオーストラリアの南海岸に浮かぶ離島、タスマニア州にある大学に自然保全を学ぶために留学したんだ。
タスマニア州はその4割が国立公園や保護区に指定されてるほど自然溢れる場所。それからタスマニア原生地域は自然遺産として、イギリス人の入植の歴史が残る囚人遺跡群は文化遺産に指定されているから複合遺産の地としても有名。大学では3年間、環境学と動物学を専攻して自分の興味を深めていった。今隠岐にいて「この生きものなあに?」って子供に聞かれた時も一緒に考えていけるのは、ここで環境学だけでなく動物学にも励んだおかげだね。
そこから日本で就職先を探そうと思って、「環境」をキーワードにネットを色々と検索してた。その時にたまたま出てきたのが隠岐しぜんむらだったんだよね。締め切りギリギリなことに焦りながらメールを出して面接をしたら、「採用!」となり職員として働くことに。自分の中でピンときた仕事だったしやってみたいと思って移住した。それが僕が隠岐に来るまでの経緯だね。
そこから隠岐での日々が始まったのですね。初めての土地での活動は苦労することも多かったのではないでしょうか?
隠岐しぜんむらの仕事はその土地のプロとして取り組む。だから最初は文献等で知識を入れることも多かったけど、実際にフィールドに出て調査結果を蓄積していくことが好きだったので大変って思うことはなかったかな。ガイドやインストラクター活動でいえば、僕はオーストラリアやどこかへ旅行する時はガイドをつけてもらうことが多かったから「人に伝えること」の基本的な役割や意義に関しては何となくイメージがあったかな。だから色んなガイドや講師のやり方をみて、実践を繰り返すことでだんだんと自分のスタイルを確立していけたんだと思う。
あともう一つメインで取り組んでいる生物調査では昆虫分野を担当することになった。もともと昆虫は好きだったけど、小さい頃は図鑑を眺めてるだけだった。隠岐に来るまで木にとまっているカブトムシを見たことがなかったくらい。だから心は「図鑑をみて目をキラキラさせてる少年」とほぼ一緒なんだよね。生で観察できる!触れられる!って今でもワクワクするし、面白い。
隠岐しぜんむらの理事長である深谷さんは主に野鳥研究をやっていて、一緒に隠岐の無人島に調査にいくことも。調査ではすごい角度の崖に登ったり、道のないような山の中に入っていくこともあって、普段だったら体験できないようなことを調査を通してたくさんさせてもらえてる。
生物調査でわかったこと事柄がそのままガイドやインストラクター活動に活かせることも多くて、興味が尽きないよ。
そこから時は経ち、今年2023年で移住10年目を迎えます。最初の頃と比べて活動範囲はぐんと広がったのではないでしょうか?
そうだね。隠岐は自然豊かな島ではあるけれど、改めて「本当に自然に優しい島なの?」って考えたら実はまだまだやらなきゃいけないことも多いって感じるかな。そして人はまだまだ自然保全を後回しにしがちだよね。でも自然はあくまで人の生きる基本だと思うんだ。自分も周りの人も、そして周りの環境も考えることが「ちゃんと生きる」っていうことだと思うから、人に対するアプローチは注力して取り組んでいるよ。
それでも環境に関することばは広く一般に知られるようになったし、確実に世論の環境に対する捉え方は変わってきてる。僕の上の世代の人たちはもっとしんどい時代で戦ってきた。経済最優先の時代で、それでも環境に関する警鐘を鳴らしてきた人たちをたくさん知ってる。だからこそ、僕は先人の意志を後世に繋いでいけるように活動を続けていくんだよ。
活動する中で感じる隠岐の魅力はどんな部分にありますか?
小さな離島だからこそ、繋がりが感じられること。僕目線の隠岐はまるで謎解きパーク。「なんでこうなっているんだろう?」って探求して分かることも楽しいし、今度はその探求がまた違うことに繋がる。隠岐に根付いてる歴史文化の多くがどこかで隠岐の地形や気候、成り立ちと関連する。何もないところからぽっと歴史文化が生まれることは考えにくいからね。
だからこそ環境教育でも自然保全だけを考えるのではなく、保全活動によってもたらされる作用を多様な視点で考える大切さをしっかり伝えられることはこの島の魅力だね。
あとは、暮らしも僕の性格にあってるんだと思う。僕は小さい頃から親戚づきあいも多かったし、色んな人にみてもらって育ててもらった記憶がある。隠岐も小さなコミュニティの中でお互いに助け合いながら生きてる雰囲気があって、僕の小さい頃と変わらなく感じるから安心できる場所。お互いを気にしつつ関係性を築く人間関係が暮らしにあることは、この場所に居続ける一つの理由になっていると思う。
隠岐の「繋がり」を伝えることは隠岐の島民だけでなく、島外の人々にとっても大事なことですね。
隠岐しぜんむらとしても、隠岐ジオパーク推進機構と協働して活動することも増えてきたね。11月に講師を務めた "AJINOMOTO GROUP Dialogue for the future(ADF)" は、それこそ「繋がり」をテーマにした味の素株式会社のサステナビリティ研修の一環だった。島外の人が隠岐に来て、全く違う環境だからこそ気づくことも多いと思うし、見えないものが見えてくると思う。僕にとっても島外の人の意見や考え方は刺激になるんだよね。
(ADF研修について、詳しくはこちらからご覧ください! ↓)
福田さんが活動をする中で、ジオパークという枠組みを意識する場面は多いのでしょうか?
そうだね。特にガイドやインストラクターをしていると、100人のお客さんがいれば知りたいことも100人それぞれある。各々の関心に答えながらツアーやプログラムは進めるけど、隠岐の現状を伝えて自然保全を考えてもらうことは根底に必ずある。そして隠岐諸島はジオパークに認定されているけど、自然に限らず地域の資源を保全していく考え方に僕自身も共感することが多い。だから、お客さんに伝えるときに「ジオパーク」という言葉を通して、地域の価値を伝えているよ。そして、お客さんが地元に帰ったときに、「自分の地域の価値はどんなところにあるだろう?」って考えてもらえればいいよね。
そして「この隠岐から日本の環境意識に変化をもたらす人材になること」は僕が目指している高みでもある。そのためには継続的な活動によって経験を積んでいかないといけないと思う。でも、自分だけではどうしようもできない。だから、各地の専門家や自治体の担当者、子どもたちも集まる日本ジオパーク大会に参加し続けているよ。もちろん、2022年度も参加した。全国の活動内容と隠岐の活動内容を比較したいからね。隠岐ジオパークの価値を知り、伝えていくためにはジオパークの活動は積極的に行いたいね。
変わらず取り組んでいきたいこと、そしてこれから実現したいことも教えてください。
自然と生きる生き方を小さなことから、大人も子どもも一緒に考える社会構造になればいいよね。実は子どもよりも個人の価値観をしっかり持っている大人に対して環境への意識を促すことのほうが大変。だけど変わらず取り組んでいきたいことだね。子どもはやっぱり大人の背中をみて育つ。だから周りにいる大人がやってないことを子どもたちにやりなさいっていっても説得力はないし、子どもたちもやらない。未来を担う子どもたちが大切だからこそ、今をつくっている大人も変わっていかないといけない。
それでも隠岐で共に暮らしている人達の中には環境へのアンテナが高い人も多い。小さなコミュニティの中で仕事も助け合っている関係性だからこそ、そういった人達との「横の繋がり」も今後増やしていきたい。島の様々な事業所と協働することで日々隠岐しぜんむらとして磨いている専門性を活かすことが出来るし、島全体に新たな波及効果も生まれるかもしれない。未来を考えればワクワクすることばかり。
これからも様々な人と一緒にしゃばって、海士を、隠岐を盛り上げていきたいです!!
筆者からのひとこと
インタビューの際に「同じガイドは二度ない」と仰っていたことが印象的です。福田さんのガイドは明るくお客さんを笑わせて、相互のコミュニケーションを取りながら進めていきます。ただ知識を持っているだけではいいガイドにはならない。それは福田さんならではの雰囲気や話し方、そして豊富な知識があるからこそ多くの人が「福田さんの話を聞きたい!」と耳を傾ける様子から学んだこと。隠岐から世界へ、福田さんの挑戦はまだまだ始まったばかりです。