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家族が認知症になったとき

認知症のご家族とのかかわりというのはなかなか難しいものです。
私たち医療者は初めから「患者さん」として接するので、弱り、衰えたその人と「記憶や認識に難しさがある人」として接することができます。しかし、これまで家族として付き合ってきた場合、できないことが増え、わからないことが増えたという人に対して「記憶や認識に難しさがある家族」としてふるまうことにはなかなかできないものかと思います。
 
ある認知症の女性がいました。ずっと大声で叫び続けるので、なかなか病院から退院ができない状態でした。しかし急性期病院では長期間の入院が難しいものです。結局叫び続けるまま、ご自宅に退院となりました。
この方の長女さんはお母さんであるこの方が大好きで「ずっと母から愛情を溢れるほど注いでもらった。愛が深すぎたほど。」とおっしゃいます。
入院中、せん妄になって大声で叫び、違う階に聞こえるほどの状態の時も「愛情が足りないからでは」と問い詰めるほど。いつも電話でお母さんに語りかけ、そうするとこの患者さんも娘さんの声を聴くと少し落ち着かれるということだったそうです。
病院では精神科の病院に受診することを勧めましたが娘さんは激怒され「キチガイ病院に行かされる」とおっしゃるのだそうです。その時のことを後から振り返ってお尋ねしたところ「だって、あの時はキチガイ病院に行けって言われたから」とおっしゃるので、ご認識としては「精神科」=「頭のおかしい人の行く科」ということだったようです。
 
私は退院の日から診療に入ったのですが、退院時の目標は「また歩けるようになること」「元に戻してあげたい」ということでした。
「愛があればなんでもできる」というわけではないのでしょうけれど、娘さんは献身的に愛情深く接しておられました。しかしさすがに一日中大きな声で「おしっこーおしっこー」「うんこーうんこー」と排便の不快感を訴えるのにはまいってしまわれました。
一か月が経つ頃。「自宅に戻ってきて、自分が愛情をもって接すれば、これまで入院中は不穏であっても戻ったのだから、今回もまたもとに戻るはず」と思っておられた娘さんですが、この時は期待通りに回復してくれないお母さんに対していらだちをぶつけるようになってきました。
私は精神科受診を勧めました。「キチガイ病院」ではないのだ、と。これまで何人もお願いして、きちんと回復して戻ってきておられるのだと説明しました。私が大変信頼している精神科のその先生はせん妄状態の方を入院で落ち着かせ、そしてお薬もしっかり減らして帰してくださるのでした。私の説明を聞き、娘さんは「母が治って帰ってくるなら」という気持ちで病院に入院させました。このころにはご本人も入院に同意していたとのことです。自分でも自分のことをどうすることもできなかったのですね。
結局その入院中に、この認知機能の低下や興奮などは進行性のものであることがわかり、自宅に帰るのはちょっと難しいということがわかり、ご家族もその診断を受け入れられました。
私は入院前に娘さんに「あいまいな喪失」について説明しました。「さようならのない別れ」「別れのないさようなら」の二つがあります。例えばご遺体が確認できないまま死亡を推測するような状態は「さようならのない(挨拶できないままの)別れ」です。また認知症で人格が変わるなど、この方のような状態は「別れのない(今はまだここにいるのに、事実上自分の知っている人とはもう会えない)さようなら」です。
「あいまいな喪失」では、喪失の悲しみをわかってもらいにくいもので、そのわかってもらえないことがさらに悲しみを深くすることがあります。
この悲しい気持ちを言語化することで、自分のつらさ悲しさに名づけをし、理解することが悲しみを緩和することにつながるのです。
 
その後、この方はご入院され、進行性の認知症であることが診断され、娘さんも「治ってよくなって帰ってくるということはないのだ」と受け入れられ、「自分の体が介護ができる体ではない以上、全介助状態で一日中叫ぶ母と一緒に住むことは無理だ」という結論に達したのでした。
 
さて、ご入院からちょうど1年が経ち、私は娘さんにご様子伺いのお電話をしました。ずっと気になっていたのです。まだご存命だといいのだけど、と思いながらお尋ねすると、入院継続中ということでした。そして施設入所を検討しているのだと。
振り返りながら思いをいろいろお聞きしました。
ご自身はお母さんから愛情をたっぷり受けて育ってきて、大人になっても愛情をたっぷり与えてもらってきた。ずっと母の「娘」だったから、今、母が介護を要する状態になっても自分が母の介護者として、母を子どものように扱うことができないのだと。そして、今も週に1度リモート面会をしていて、毎週手紙を書いて面会に行っているのだそう。しかし、先日の面会では自分のことを認識してくれず、誰かわからなくなっていたと言っておられました。
療養中のことを振り返れば、後悔することはたくさんある。ああすればよかった、こうすればよかった……。
そのような思いをお聞きして、電話を終えました。
30分ほどして今度は娘さんのほうから電話がかかってきました。
「さっき、たくさんの後悔があるってお伝えしたのですが、言い足したいことがあるのです。それは、後悔以上に、私は満足しているということです。私は母との楽しい思い出がたくさんたくさんあって、どこに行っても母との思い出がたくさんで、あそこにも行った、ここにも行ったとたくさん楽しいことをいつも思い出すのです。そして、家では母の写真を見ながら母に話しかけています。映画に行くときも写真の母と相談しながら、映画を選んで、母の写真をもって観に行くのです。今も元気な時の母とずっと一緒にいるのです。もし、母が元気なまま急に亡くなっていたら、喪失の悲しみで大変だったと思います。母は弱りながら喪失の予行演習をさせてくれているのだと思います。週1回お見舞いに行って、私のことがわからなくなっている母と会いながら、私の中には元気な時のままの母がいるのです」といってくださったのです。
私は感動しました。この方はまさにあいまいな喪失を受け入れながら、喪失した悲しみと一つになりながら新しい自分を生きておられるのだと。今も弱りながら別の場所にいるお母さんに支えてもらいながら喪失を味わっておられるのだと。
本当の喪失を前に、あいまいな喪失で、予行演習をしてもらっているというこの方の言葉に、うなずく方も多いのではないでしょうか。
このお母さんと娘さんだけの物語であると同時に、普遍的な物語を聞かせていただいたなと感じました。
 
もちろん、最後までずっとそばにいることを選ぶ人もいます。
でも、離れていても、家族として愛しているという形もあるというお話しです。

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