自分の陸上人生を淡々と振り返る(大学生編その6)
今回は重いです。覚悟して読んでください。どこまで自分が書くか現時点で僕もわかりません。でも絶対重いです。あとこのあたりからたまに時系列がめちゃくちゃです。ご了承ください。
関東学連選抜チームの廃止
これが何月だったか覚えていません。多分5月か6月です。
その知らせは突然だった。いきなり議題に上がるということでなんか各校の代表者が出席する会議に行くことになった。
学連選抜が正しいかどうかはわからない。多分答えがないだろう。ただ東大としては勿論廃止に対して断固反対だった。
当時の自分も勿論廃止反対派である。廃止にするならば自分が納得するまで説明をしてもらう、そのつもりで乗り込んだ。
会議の詳しい内容は覚えていない。ただ覚えているのはただの大学のエゴだけで事が決まっていることである。「メディアに注目される場」という言葉を使っただけで当時の会長が恫喝したこと、箱根駅伝常連校の非常連校に対する見下した発言、そしてこちらの意図を全く理解してもらえないまま多数決が取られて第90回の学連選抜廃止が決まった。
自分自身が納得いくまで説明をしてほしかった。翌朝になろうが何日かけてでも議論してやるつもりだった。それができなかったことがつらかった。
正直それを考えるならば箱根駅伝の意義から考えるべきである。
ちなみにその時の会長は今とあるところの駅伝監督をなさっている。
そのチームの箱根駅伝予選落ちのニュースに対する感想は「ざまぁ見ろ」である。わたしはあの程度の議論で軽く決めやがった関東学連の上層部に対しては不快感しかもっていない。もっと言うとあの組織はぶっ潰したい。今でもだ。箱根駅伝は本当は正しいのか、放映権という甘い汁だけ吸ってのうのうと適当にやってその議論すらできないあの上層部は腐っている。
大学4年6月7月
6月初めに国公立戦があった。1500mと5000mに出たが正直納得いく結果ではなかった。
この当時の目標は2つ、8月初めの七大戦で去年取れなかった点を1点でももぎ取ること、箱根駅伝予選会でなんとか去年のチームタイムを上回り「前進」すること。
そのために6月~7月前半は自分にとっては鍛錬期であった。30キロjogなども数回行いスタミナアップ、10000mにも出て自己ベストを出したがあくまで練習の一環、前日には普通にインターバル練習をしていた。
一方精神的にはかなり不安定であった。
多分このくらいの時に「過眠だったり不眠だったりする」と同期に言ったことがあったと思う。不安に思わせることもしたくなかったのであくまで軽く、「あははー」とか言いながら。その時なんと返されたかは覚えていない。
学科の授業には本当に最低限しか行けていなかった。座学なんて履修はしたけど多分単位なんて来てないと思う。レポートとか1つも出せなかったと思う。
それでもぎりぎりの精神状態でいれたのは練習がまだ積めていたからである。1500mは去年より4.5秒速い自己ベストで臨める。なんとか表彰台を。5000mは厳しいかもしれないがそれでもせめて得点を。そう思って練習していた。
7月初めの四大戦は5000mにだけ出て難なく優勝。これが僕が納得して走った最後のレースであった。
7月後半、梅雨が明けるとともに気温がぐんぐん上がり、それに反比例するがごとく調子はどんどん下がっていた。
それでももう七大戦はエントリーしてある。逃げるわけにいかない。5000mは無理かもしれないけど1500mだけは得点を、そう思っていた。
大学4年8月、9月
七大戦、目指していた舞台。とにかく暑かったことは覚えている。
1500m、序盤はいいペースで前の方でレースを進めるが1100mくらいでいきなり足が止まった。1500mを走っていてこんなことはなかった。いまでもなんで足が止まったのかはわからない。そのままjogしてゴール。得点なんて取れるはずがなかった。
5000mはとにかくレースをひっちゃかめっちゃかにして東大2番手に得点を取らせることに急遽作戦変更。まぁ無理だったが。
ちなみにこの七大戦、男子総合優勝したのは東北大だった。前評判では京大阪大が強かったのでかなり意外だった。前半でかなり稼いで勢いで勝ち切った、そんな試合だったと思う。対校戦の流れというものを大学4年の七大戦で初めて知った。
そのまま合宿へ。大学1年の時のようにここで立て直せるかなと思っていた。しかし2日目くらいに坐骨神経痛で離脱。まともに走れる状態でなかった。
しかしチーフ業は個人だけではない。チームのことを考えなければならない。2日目くらいに全員と面談した。この時はまだチームを見ようとしていた。七大戦の目標は達成できなかったが予選会でなんとかと思っていた。
しかしそれには自分がベストの走りをすることが絶対に必要であった。
そんな中の坐骨神経痛でまともに走れないという事実。合宿にこられた院生の先輩から叱咤されたこともあったが、もう自分は壊れていた。
それでもなんとか走らなくちゃいけない。東京に帰ってから整体に行くなど色々した。しかし治らない。どんどん僕は壊れていた。練習にちょっと行けないと同期にまとめるのを頼んだこともあった。別に行けないわけじゃなかった。池袋まで行ってそこで足が止まって行けなくなるのだ。
それでも9月下旬の10000mで33分切るくらいでは走れていたんだから人間ってよくわからない。
大学4年10月箱根駅伝予選会
最後の箱根駅伝予選会は目標を11時間13分にする。そしてグループに分けて集団走をする。グループ内も役割を持たせて引っ張る人、ついていく人に分ける。
この作戦立案が僕がした最後のチーフ業である。ずっと温めて最後に決断をした。
ただ自分の体は限界であった。箱根駅伝予選会当日の朝は覚えている。試合の日のルーティンをしながら気持ちは負け戦へ行く気分だった。でもそれと同時にこの生活と今日でおさらばできる、その気持ちもあった。
結果はダメだった。集団走という作戦自体は良かった。ただそれを甘く見ていた。もっとしっかりシミュレーションをすべきだった。
ちなみに今年の予選会、ラップを見ると東大は同じようにグループに分かれて集団走をやっているのだろうか。もし僕の作戦が今でも残っているならばちょっとだけ嬉しい。
そういえば最後、4年生の引退の言葉の時に「陸上競技を引退する」と言った。もうあの時は限界だった。すべてから逃げたかった。
その後
その後はあまり覚えていない。
バイトだけは休まず行っていた。生徒に迷惑がかかるから。スーツを着て笑顔の仮面を張り付けて。
学科、卒論なんて1行も書かなかった。昼起きてもごはんを食べる元気もなくちょっとだけ元気の出る夕方に2回食事をとった。
なんか色々イベントがあった気もするがほとんど覚えていない。良く出席したなと思っている。
人に会う時だけは笑顔の仮面を被って大丈夫と言いながら全く大丈夫ではなかった。保健センターで鬱診断を受けて、でも途中で行くことすらできなくなりという状態だった。
ひと言で表すならば廃人であった。
色々
色々書いたが別に当時の周りを恨んではいない。マイナスの感情も持っていない。どうやったらあの状態を回避できたのかなんて誰もわからない。
鬱の影響は今でも残っている。当時より生活などはましだが、「全員の自分に関する記憶を消したうえで自分は消えたい」という欲求は今でも強く強くある。
東大陸上部に入ったことを後悔はしていない。5000m14分台、1500m3分台を出せなかったことは心残りだが心残りなだけである。
でももう1度大学生活をやり直せるならば東大陸上部に入っていたかは怪しい。少なくとも20㎞は僕にとって適正距離ではなかった。
でも今でも陸上競技は好きだ。それを変えたい、そう思っているからこんなnoteを書いているわけだし陸上競技改革者を自称している。
お願い
これを読んでいる知り合いにお願いがあります。
まず僕という人間を理解してください。僕という人間はここでは書ききれないほどあり、言語化もできないのですが理解をしてほしい。どうやって理解するかはわからないけど。
あとたまに連絡をください。自分が連絡しないのは相手を必要以上に気遣っているだけです。途中で途切れるかもしれませんがたまに連絡をください。それだけで少しだけ生きている気がします。無視するかもしれませんがそれはたぶん精神的に死んでいるだけです。
その7は行かないですね。ほかのことを書くかもしれません。
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