ひとりぼっちを作らないためには「線引き」をしないことが大事だよなという話
「コミュニティ」という言葉をはっきりと認識したのは2011年のことだった。
友達の「ランボー」という屈強なあだ名の割にひょろっとした体格の青年が、「コミュニティデザイン」という言葉が表紙に書かれた本を持っていたのを見たのがきっかけだ。
当時はいわゆるアーリーアダプター的なカタカナが好きそうな人たちが好んで使っていたが、8年経って飛騨に住んでる実家の母が日常的に使うほど、かなり浸透した言葉となった。
母は「コミニティー」って言うけども。
大小問わず、我々は何かしらのコミュニティに所属している。
家族、会社、高校の部活の同期、地域の消防団、社会人フットサルサークル、行きつけの居酒屋、オンラインサロン、オンラインゲームの仲間たちなどなど、数えだしたらすごい数になりそうだ。
コミュニティという「居場所」が健全に機能し続けるためには、いかに孤独感をおぼえる人を減らしていくかが大きなポイントとなると思う。
「自分はそこにいていいんだ」「自分がここにいることには価値があるんだ」と思って、能動的にその場所に貢献したいと思える状態を作り出せるか。
反対に、「自分はここにいてはいけない気がする」と感じてしまう要因のひとつに、人と人との間の「線引き」が挙げられると思う。
線引きをすることで、人と人とのコミュニケーションの機会が断絶されてしまい、先々につながるような可能性や過去に大事に育ててきたものが一瞬で失われてしまうこともある。
今回のnoteは、端的にいうと、この線引きをやめようぜって話である。
※あらかじめ言っておくと特定の誰かをイメージして書いたものではないです。
↓前書いたこちらの記事ともリンクする内容です
よくある線引きの例
日常生活の中で、我々は常になんかしらの線引き、レッテルに晒されている。
正社員⇔派遣さん
本部⇔現場
高学歴⇔低学歴
高収入⇔低収入
大企業⇔名前を知られてない企業
大きいところだとこのあたりなんかはよく見かける例だ。
基本的に左側と右側を照らし合わせて、左側の方がエラいって言われがち。
僕はWebマーケティングの仕事をしているのだけど、よりミクロなところだとこんな感じの線引き、対比構造も見かける。
上流コンサル⇔下流ライター、デザイナー
マネージャー⇔プレイヤー
紙⇔Web
内部⇔外注さん
総合会社⇔専門会社
マネージャーがプレイヤーよりエラいなんてことはないし、紙がWebよりイケてるなんてこともない。
コンサルがライターやデザイナーよりエラいなんて考え方は言語道断だ。
こんなに速いスピードで時代は動いていて、在り方も常に変化しているのにやたらと線引きをして、優劣をつけて、レッテルを貼ろうとする。
似ているところを分かち合えばポジティブな可能性が生まれるのに、違いばかり際立たせてしまう。
すべては、住み分けと役割分担で、肩書きなんてものは過去のものでしかない。
やたらめったら線を引くのではなくて、ある目的に向けて、お互いの得意なところや好きなところを伸ばし合いながらやっていく。
わかりやすい過去の肩書きや見せ方にとらわれずに、頭と心を使ってその人と自分ならではのオーダーメイドなコミュニケーションの方法を考えていく。
それでいいじゃないかと思う。
人はなぜ線引きしてしまうのか?
では、そもそもなぜに人は線引きをしようとしてしまうのか。
きっと僕もいろんな線引きをいろんな人にしてしまっていて、思い当たる節もあってどの口が言う状態なのだが、考えてみた。
①自分のプライドを守るため
高学歴だとか高収入だとか、そういう競争社会にいた人ほどこの傾向が強い印象がある。
自分より良いアウトプットを、自分より(わかりやすい指標において)レベルが低いと思ってた人が達成したときとかに露呈するイメージ。
例)ドラゴンボールでベジータが「下級戦士のカカロットの手など借りん!」的な発言をしているシーン
②自信のなさ
話してみたら色々発見があるかもしれないのに、その人の肩書きを見て、「自分なんてあの人と話すのもおこがましい…」とネガティブになってしまい、心を閉ざしてしまうケース。
例)ナルトでヒナタが「ナルトくんと私が話をするなんて…」とシュンとなるシーン
僕はこのパターン多めです。すみません。
③派閥組みたがりパターン
「こっち側」と「あっち側」を分けることで、自分たちは最高だけどあいつらはダメだと共通の敵を作り、見下して、集団で気持ちよさを保とうとする派閥パターン。
例)ギャング映画や女子高生の派閥争い(裏切り者に厳しい)
④その方が自分が楽だから
これはけっこう理由として大きいと思う。いちいち何かを考えるときに、相手の気持ちを深く想像するのって意外とエネルギーがいるもの。
それだったら、それっぽいレッテルを貼って、線引きをした方が自分自身が楽なことは多い。
だからこそ、エネルギーをかけずによりナチュラルに相手を思いやれる思考のブラッシュアップ、己の器磨きをしておく必要があると思う。
線引きシチュエーションは数多あるけども、このあたりが主な理由なのかなーと思った。
線引きの対策になるのは教養を身につけること
一度、人に対して線引きをするパターンが身についてしまうと、それがクセになってしまい、せっかく新しい交友関係を作るチャンスやビジネスチャンスを逃してしまうことになる。
線引きをした側は無意識の発言であっても、言葉の節々のトゲを、線引きをされた側は嫌なくらいに覚え続けてしまう。
一言をきっかけに、長年の交友関係にヒビが入ることもあるし、大事だったコミュニティの中での居場所を失ってしまうことだってある。
じゃあ、線引きをしないためにはどうすればいいか。
いろんな本を読んで、いろんな人に出会って、考えに触れて、視点の数を身につけること。
すなわち、教養を身につけることが鍵を握ると思う。
特効薬はなくて、初めて会った人にも、いつもの人にも、目の前の相手にきちんと興味を持って、相手の立場を想像して話をする。
相手を受容して、自分ならではの言葉で思いを伝える。
当たり前のように思えて、とても難しいことだけど、人を巻き込んでいくコミュニケーション能力というのはここに尽きるのかなと。
自分を守るためにも、相手を尊重し、孤独感をおぼえさせないためにもそう。
ある居場所で、相手を大事にしたいなら、相手への理解不足は罪だし、自分の思い通りの相手に仕立てようとレッテルを貼る行動はエゴだ。
人間はもともとわかりあえない生き物なのかもしれないけど、だからこそ、わかりあおうとするための教養を身につけること。
今、わかりあえているであろう人たちと長く楽しく生きていくために、ひとりぼっちを作らないための想像と、前提に頼らない対話をすること。
これらが大事だよなぁと感じる、28歳の秋の夜長の独り言でした。
さいごに
さいごではありますが、この記事は特定の誰かをイメージしながら書いたものではないです。もし色々悩ませてしまう人がいたら、申し訳ありません。
人との向き合い方って難しくて、うまくやれば可能性が大きく広がるのに、ついつい過去の自分の穿った見方が顔を出したり、自信のなさや嫉妬みたいな気持ちが出て、線を引いてしまう。
そこから生まれた小さな罪悪感みたいなものを受け入れられずに、反省からも目をそむけて、成長できないまま新しい人に会ってしまって、またさみしい思いをさせてしまう。
書いていて、うわーとなることばかりでした。
できるだけ改善して、より多くの人を受け入れる懐の深さを持てるように、いろんな人の考え方に触れなければと思う次第です。
がんばるぞ、オー!
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