「自分で調べろよ」はなぜ起こるのか
今回のテーマ
今まで多くの人が言われたことがあるフレーズではないでしょうか?私もかなり言われてきました。
「自分で調べてみたら?」「自分で調べろよ」
何かを他の人に尋ねた時に回答者から言われるフレーズだと思います。
今回はなぜ質問者が「自分で調べろよ」と言われてしまうのか、私なりに考えを記してみたいと思います。
※「自分で調べろ」と言われるのは質問者が回答者に金銭等を払っていない、いわゆる「タダで質問に答えてもらう」場合を指しています
「自分で調べろよ」と言われる2つのパターン
1.質問をする人が調査を怠っているパターン
「自分で調べろよ」と言われるのは大半がこのパターンではないかと思います。質問者は調査の仕方が分かっているのに、その作業を怠って質問をしてしまい、回答者に「自分で調べろよ」と言われてしまう、という流れです。これは完全に質問者に非がある、と私は考えます。質問者自身が自分の時間と労力を費やせば、答えにたどり着けるので。このパターンにおいて、質問者は回答者へのリスペクトを欠いた行為になるのではないかと考えます。
2.質問をする人が調査方法を知らず、「答えへの辿り着き方」を認知していないパターン
このパターンはあまり世の中で認知されておらず、意外と多いのでは・・・と思っています。答えに辿り着くための調査方法/検索方法を質問者は分かっていないというものです。このパターンの例を挙げると、「質問者は正解が書いてある文献/資料に辿り着きたいが、その文献/資料がどこにあるのかわからず、文献/資料の検索方法もわからない」というものでしょうか。もっとシンプルな例を挙げると、「初めてある街にきた旅人(=質問者)がその街にあるお目当てのカレー屋(=探している正解)を探しているが、そのカレー屋の場所がわからず、どうやって特定すれば良いかわからない」という感じでしょうか。(分かりにくい例かもしれません・・・)
このパターンで質問者が回答者に「自分で調べろ」と言ってしまうのはかなり暴力的になるのではないかなと考えます。そもそも質問者は調べ方がわからないのですから。
上述の例で言えば、旅人はお目当てのカレー屋の場所がわからないのに、街の人が旅人に「自分で調べろ」と言ってしまうようなものでしょう。旅人は街の中でしらみつぶしにお目当てのカレー屋を探すことになってしまい、途方もない時間と労力を費やしてしまう可能性が大きいでしょう。
ではなぜこのパターンが起こるのか。回答者が「調査/検索方法を知っていることは当たり前」と思っているからではないでしょうか。
先ほどの例だと、街の人は「カレー屋の場所なんてネットで検索すればすぐに見つかると思っている」が、村人は「検索手段としてネットがあることを知らないので、お目当てのカレー屋がすぐに見つかるとは思っていない」のです。
最後に
簡単にまとめようとすれば、「回答者と質問者の間で常識の範囲は異なるから、質問者も回答者の間で認識を擦り合わせましょう」ということができます。でも、そのような解決策や指針は誰もが聞いたことがあることだと思います。認識をすり合わせるための1歩目に何をすれば良いのだろう、と考えてしまい、行動に移せないのではないかと思います。
「相手の立場や時間を考えれば、認識をすり合わせられない」
「認識をすり合わせに行けば、回答者に反論、批判、文句を言っているように思われるのではないか」
なんて懸念もあると思います。
そこで挙げる自分なりの解決策として、質問される時もする時も
「質問以外の会話のやり取りを1回だけ増やしてみる」
これが認識をすり合わせることができるようになるための1歩目なのかなと思っています。
「絶対5回以上はやり取りをしよう」「完全に認識が合うまでやり取りしよう」などとするとノルマ感が出てしまい、変に自分にプレッシャーをかけてしまいそうな気がするので。長く続かず癖として定着せず、認識を合わせられる人にもなれないようにも思います。
自分なりの解決策が思ったよりしょぼく、なんだか尻すぼみな記事になってしまったかもしれませんが、今回はこの辺で。