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初めての『B'zのLIVE-GYMへようこそ!』から21年経った。

いまは昔。我が家には家族旅行と言う概念がなかった。
野球バカの父の影響で弟たちは小学校のソフトボールを経て、中学・高校と野球部だった為に土日の休みなど無い。
毎週のように行われる練習試合、もしくはなんかしらの集い。
父と母もそれに参加し家族が揃う休みなど盆と正月くらいだったからだ。

そんな中、1度だけ母と2人で旅行をしたことがある。14歳の夏の話だ。

その頃の私は病的なまでにB'zにハマっていた。近年、その有様を幼馴染から
あれは狐憑きのようだった」と評されたほどに。

ファンクラブに入り、CDを買い集め、松本さんの深夜ラジオを聞き、音楽番組をひたすらチェックする。
イントロクイズをすれは1秒で当てる。美術の授業で題材にして、物凄く気合の入った作品を作る、など。
そのせいか、双子の弟たちが修学旅行でそれぞれB'zのテレフォンカードをお土産に買ってきた時は「打ち合わせした?」と聞いた(勿論していない)。

そんな私が憧れてやまないものが「B'zのLIVE-GYMへようこそ!」でおなじみのB'zのライブだった。
めちゃくちゃ行きたい。生で観たい。
しかしここは愛媛。そう、愛媛。陸の孤島。大きいライブツアーでひょいっと飛ばされがちな四国である。

そんなある日、新しいアルバムとツアーが発表された。日に日に熱を浴びていく私を見兼ねていたのか、母が「大阪公演に2人で行ってみる?」そう言い出した。
その声はまさしく青天の霹靂。そんなの行くしかない。絶対行きたい。お願いします!と頭を下げて母と初めてのライブ、そして大阪旅行が決まったのだった。

1999年。お盆が過ぎ、まだ暑い8月の終わり。2人で特急に乗ってまずは岡山を目指した。自由席に席を見つけて座っていたけれど、途中のアナウンスで車両の切り離しがあると知り、急いで移動。結局1時間近く立ちっぱなし。途中でやっと座れた時にはホッとした。
その日のことを図入りで日記に描いていたが、どうやら座席の間の通路に立っていたらしい。旅慣れた今なら、こうはならないのに。

瀬戸大橋を渡り、岡山で新幹線に乗り換えて新大阪駅へ。

到着した新大阪駅は今とは違いお世辞にも綺麗とは言えなかった記憶がある。薄暗いイメージで、なにか楽しい場所があった記憶もない。それにトイレの紙がないのは衝撃だった。

地下鉄、赤色、御堂筋線に乗り、大阪駅までは地上を走る。
窓の外に流れる景色。なんだか良く解らないけど、都会に来てしまった…とビルの群れをぽかんと見つめる。愛媛には、自分の住んでいる辺りにはせいぜい二階建てくらいの建物しかないのでエスカレーターに乗ることなど皆無。
そんな田舎者が心斎橋駅まで出て、地上へ。人の波の中、母に付いて歩く。テレビでしか見たことのなかった、大阪の街。こんなに人が多いのか。ガヤガヤした喧騒に紛れて逸れないように、離れないよう歩く。
エスカレーターでは真似をして右に避ける。どんどん追い抜いていく人たちは、何をそんなに急いでいるのか謎だった。

ホテルは母が雑誌を見て電話を掛けて予約してくれた。
このホテル、とペンで丸をしていたのを覚えている。
当時は電話予約が主流で、インターネットでの予約なんてあったのだろうか。聞いたことないだけであったかもしれないが。
そう言えばライブのチケットだってファンクラブ会報に載っていた通りに電話を掛けて質問に合わせてボタン選んで押していって抽選に申し込んだやつだ。

公演番号21番、大阪ドーム、土曜日、2枚。

その年はB'zのベストアルバムが出た翌年だったけれど、なんとかチケットを取ることが出来た。あの瞬間の気持ちの高鳴りは忘れ難い。この年から二十年、ずっとライブに通っているけれど、今もあの頃も当選の文字を見たときの嬉しさが薄まったことは無い。

ホテルに荷物を置き、暑い昼間、心斎橋を歩いた。母にとっては馴染みの街。
本町にある料理屋に就職して父と出会い、なんやかんやあって結婚したことは聞いていた。所謂、職場結婚。
その辺の話を詳しくは教えてくれることは無かったのに、この日に限って饒舌だった。

ここがひっかけ橋、よく見るグリコの看板。かに道楽の動く蟹。くいだおれ人形。
案内して貰いながら夏休みで人が一杯の中、地方から来た観光客丸出しで、写ルンですで写真を撮り、友達への土産にベタな物を買う。
確か7色の小さなビリケンさんを買って、皆で分けた。実家には今も赤いビリケンさんがちょこんと座っている。

お好み焼きを食べ、母に付いて商店街を歩く。ウインドウショッピングが出来ない人なので、まともにお店を見れた覚えはない。ただ、歩いた。
歩きながら、ぽつり、ぽつり。18歳から20歳になるまで、働いていた頃の思い出話をする母の横顔を見ていた。彼女はその時34歳で今の私と同い年だ。

大阪出身の彼女の実家は大阪の八戸ノ里という場所なのだが、ほぼ縁を切っているためか折角ここまで来たのに訪ねるそぶりは無かった。
一応、行かないの?とやんわり聞いたけれど「別にいい」とだけ。

途中、母にしては珍しく喫茶店に入ろうと言い出した。喫茶店に5分以上座ってられない人なのに。コーヒーを頼んで一気飲みして出ていく、イタリア人みたいな人なのに。
レトロな造りの喫茶店の二階に通されて、窓側の席。商店街を見下ろしながらミックスジュースを飲む。
初めて飲んだそれはシャラシャラ、氷の粒が心地良く、とろりと甘い。

「昔、職場の子と良く来たんよ」

それを皮切りに、思い出話をする。

寮がある職場を条件に就職したこと。
皆でそば寿司を摘まみ食いしたこと。
自由がなかった親元から離れて、同世代の子と居られるのが本当に楽しかったこと。

実は結婚する1年前、付き合ってすぐの夏。21歳だった父はまだ19歳だった母を愛媛に連れていき両親、つまり私の祖父母に紹介していたこと。

父に「板前は向いてないから辞めたら」と辞めさせて、産まれてすぐだった私を連れて愛媛に帰った話を聞いた時は「うん。正解だわ」と納得した。父は手先が器用ではない。

「ホンマは魚捌けるけど、お父さんの前では出来んふりしてる」
「なんでまた」
「しょうがないな~って言いつつ満更でもない顔で捌くのが面白いから」
「…してるわ。満更でもない顔」

この話は黙っておくように。
そう言われたので、これは私と母だけの秘密だ。なので今も父は時々魚を三枚におろしている。母が料理上手なことを知っているはずなのに、本当に解っていないのか、解っていない振りをしているのかは謎のままで良いと思っている。

夕方になる前に移動して、大阪ドームへ。貯めたお金でツアーTシャツとパンフレットを買って、スタンド席に座る。緊張のあまり心臓が痛い。会場のライトが落とされ、歓声が上がりライブが始まった。
初めて観るライブ。生で観る、稲葉さんのあまりの格好良さに
「今、この人と同じ空間に居る奇跡」
「もしかしたら稲葉さんの吐いた二酸化炭素を吸っている可能性が…?」

女子中学生だということを差し引いてもどうかしている。

どうかしていたので、この日の2人のMCを全部記憶してその日のうちに紙に書き連ねたものを未だに持っている。
松本さんのファンサに「大人の男の色気が凄い…心臓が痛い」と呻き
稲葉さんの笑顔に止めを刺された。
ギターの、バンドの音の迫力。圧倒的な歌唱力に加えパーフォーマンス。
神はここに居た。

その晩、胸が一杯になり過ぎて「晩御飯いらない」そう言ったのは本当に悪かったと思っている。当時の母が「大阪で飲めるぞ」と考えていたであろうと想像すると、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
でも田舎の子供がB'zを初めて生で観てしまったのだから許して欲しい。

次の日。
母の希望で住吉大社に行くことになり、今日も御堂筋線に乗って天王寺駅へ。そこから乗り換えで、阪堺電車に乗る。チンチン電車と言われるこの電車は母にとって思い出深いらしく、街中を走る電車の外を指差して色々話してくれた。

そして、母にとっては唯一の味方だった祖母、私にとっては曾祖母が住吉大社の近くに住んでいて、ここに来るのが楽しみだった話を聞いた時。
祖父母が母にとって実の両親では無かったことを初めて知った。
でも、どこかでそんな気はしていた。一度だけ会った時、子どもながらに何かがおかしいと思っていたから。母にとっては叔父と叔母にあたるらしい。

それ以上詳しくは聞けないまま。鳥居前で降りてすぐの場所に住吉大社はあった。

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20年前のことで記憶が曖昧だが、反橋の名に恥じぬ反りっぷりに「これ、渡ってええの?」と尻込みするも、スタスタと歩く母を追って登ったのは覚えている。
下りはもっと歩きにくい。下り階段が苦手な私はおっかなびっくり歩く。慣れた感じで降りた母が手招きして待っていた。

「ビビり過ぎやろ」
「ビビるわこんなの」


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参拝の後、自由軒でドライカレーを食べることに。この店のドライカレーはカレーライスのルーとライスをよく混ぜて盛り、その真ん中を窪ませて生卵を乗せた大阪名物と言っても良い一品。
なんでも父と母が付き合ってすぐの頃デートで食べにきたらしい。

「ここのカレー、気に入ってたん?」
「いや?二人でイマイチやな…言うて食べた」
「イマイチなのになんで連れてきた」

「まあ、ええやん」

ソースを掛けてよく混ぜて食べると確かに独特。でも私は嫌いじゃなかった。
母は、ただ単に昔来た店にもう一度行ってみたかっただけなんだと思う。

昼過ぎにはもう新大阪駅に戻って、何故か真っ赤な鞄を買ってもらって愛媛に帰った。

今あの頃を思い出すに、うちの家に余裕はなかったはずだ。
一軒家を建て、子どもは14歳と12歳が2人。加えて、はちゃめちゃに可愛い犬を飼っていた。

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(※犬に関しては本文とは関係ないけどはちゃめちゃに可愛いので貼ります)

両親は随分若い夫婦だったし、お金も無かったはずだ。

というか本当に無かったらしい。

高専を卒業した日に母から実はお金がギリギリで
「我が家は自転車操業どころか火の車操業だ」
とラジオに投稿したら読まれたことがある、とエッジの効いた告白をされた時に初めて知った。
父が割と散財するのもあって、我が家の貯金残高はこれだけしか無いよ、と聞いた時。銀河が、宇宙が見えた。

実習と実験の合間を縫ってバイトしまくり、自分で毎月の定期代と携帯代を払い、部活でバイト出来ない弟に小遣いをやり、引っ越し用の費用を貯めていて良かった。そこまでギリギリだったなんて。いや、そんな状況なら言ってくれよ。

でもそんなギリギリな中、なんとかライブに連れて行ってやろうと考えてくれたことが嬉しかった。
だから就職して兵庫に出てきて以降、年に一度はあの日の大阪の恩返しをし続けている。
あの日してくれたように母と旅行を兼ねたライブに行く時には交通費、ホテル代、食事代。全部私が出す。

中学生だった私を大阪の街に連れ出してくれたことが忘れられないから。

母の分のチケットが用意出来なかった年は何処か行きたい場所はある?と聞き、愛媛から連れ出す。
仕事の都合上、1泊2日希望の母が選ぶ旅先は、2回に1度は都会で、比較的近くて、馴染みのある大阪だ。
1人だと選ばないし泊まらない、ちょっと良いホテルに泊まり、その時母が食べたいものをなんでも食べ、その時希望した場所に行く。
一昨年の冬、20年以上遊園地に行ってないから行きたいけど、並ぶのはヤダ。そんな母の為にファストパスを用意してUSJに行った時には私が思っていた以上に楽しんでくれていたらしい。それは後で父から聞いた。

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今はこんな状況で、母と旅行どころか外出もままならない。
だから今は、次がいつになるかは解らないけれど、今度はどこに行こう?と話をする。母のご希望はやっぱり大阪
「蟹を好きなだけ食べたい」
「冷凍ものじゃない、カキフライを食べたい」
「あと、美味しい牛肉をちょっとだけ食べたい」

そんなの、大阪でなくてもいいじゃないか。食べたいものより行きたい場所を考えてくれよ。そう思うけれど、きっとまた店を探してホテルを予約して、切符を取って、母と大阪に行くだろう。

私としては、母と父が出会った『美々卯』に行きたいけれど、曰く、賄いで一生分食べたせいでうどんが嫌いな母のことだ。それは難しいかもしれない。

こんな風に自分がして貰って嬉しかったことの恩返しができる心と身体、そしてほんの少しのお金のゆとり。

それに何より大好きなものを大好きなままで居られることが私にとって
「ゆたか」なことなんじゃあないかな。と思う。

さて。次はどこに行きましょうか。



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よしきち
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