ゲオルギューのわがままなのか?
ニュースになったトスカの韓国公演
ゲオルギューがニュースにでている!
SNSから、いま、彼女が韓国公演をしているのは知っていた。韓国での記者会見のときの、目の覚めるような黄緑色のサマードレスにサングラス🕶️の写真が、ニュース記事とあわせてドドーンと目にはいる。あれ?これは数日前の写真よね。なんで舞台写真じゃないのかな・・・
見出しは「公演中に乱入、私を尊重しなさい」
ニュースの本文を読んで驚いた。
トスカの公演中、カヴァラドッシが観客の声援に応えアリアを繰り返して歌った。そのため、憤慨した彼女は、劇中にもかかわらず指揮者に抗議をした。カーテンコールでは、ゲオルギューにブーイングがとび、ゲオルギューは観客にお辞儀をせず舞台袖に引っ込んだ。らしい。
記事からは、気性の激しいプリマドンナのわがままにあきれた視点が感じられた。
が、まってほしい。
果たして、ゲオルギューだけをせめられるのか。
ショルティをリハーサルで泣かせた「椿姫」
ゲオルギューは歌の表現力、さらに美貌と演技力の高さを兼ね備えたオペラ歌手だ。1990年代にオペラ界に登場し、一世を風靡した。「ゲオルギュー」という発音しにくいカタカナ表記に、舌を噛みそうだったが、ルーマニア出身ときき、勝手に納得した私は、
「アンジェラ」より、「ゲオルギュー」として記憶してきた。
当時、私は音大生だった。ゲオルギューの当時の夫、アラーニャとの来日公演、ラッキーなことに師匠が行かれないとチケットが回ってきて母とふたりで行った。偶然そこで、私は不思議な出会いがあり、楽屋にいくことになったのだが・・・またそれは別の機会に書きたいとおもう。
その後、ゲオルギュー&アラーニャの主演で映画館で上映された映画「トスカ」も機会に恵まれ2度ほど見に行った。
ヨーロッパから離れた日本の音楽学生である私たちが、名前を連呼するほど、彼女の知名度は高かった。だが、私はつい最近までゲオルギュー本人については何も知らなかった。
ゲオルギューは、デビューから実力がある歌手だった。あのショルティが、1992年、英国王立オペラハウス、椿姫のリハーサルで、彼女が歌うAddio del passato を聴き、感動して泣いてしまった。。。というのである。
このエピソードは有名だが、私はきちんと読んだのは2023年6月に出版された彼女の伝記である。
アンジェラ・ゲオルギュー 著
A Life for Artアンジェラ・ゲオルギューStory
元井夏彦 訳 みずのわ出版 2023
前のご主人さまの名前だった!
じつは、私はまだこの本を手に入れたばかりで熟読できていない。しかし、前半読み進めたところで、いくつも発見があった。
いうまでもないが、改めて、彼女はレコード会社が作り上げたような大衆スターではなく、大変な苦労の上の実力者だと確信しながら読んでいる。
余談だが、私は、若き日のゲオルギューの演技力や表現力が大好きである。にもかかわらず(もしかしたら、見た目の美貌にだまされているのではないか。)と心のどこかで思っていた。
そんな邪念が沸いてしまうほど、彼女の舞台のただずまい、表現は、美しいのである。
が、この本を読みはじめて、そのどす黒い想いは払拭された。
共産主義国ルーマニアでの政治的要因による苦労は想像以上だった。
また、伝説となったショルティとの椿姫に取り組む場面が大変細かく書いてあるのも、大変印象に残った。ショルティとのオーディションの段階で「慣習で歌われているように歌うのではなく、ヴェルディが楽譜に書いたとおり演奏しましょう」と提案され、忠実に演奏したこと、その感動がその後の演奏の基準になっていると書かれている。
私ごとだが、オペラで慣習のカットをせずに、楽譜のまま演奏する難しさを演奏者としてはよくわかる。
自分が現場にいるとき、原典主義の指揮者に会うことがある。例えば慣習的にイタリア語で歌われている曲目をどうしても原典のフランス語で歌え!などで、準備期間が短い場合、それは非常に苦しい作業だ。頭に新曲を叩き込むより、難しい・・・
しかし、彼女はものともせず、むしろ、原典から学ぶ成功体験を基礎としている。
声楽の高い技術をもつ実力者だからこそ、なせる状況だ。
この本であわせてワクワクしながら読んでいるのは共演者たちからのコメントである。
彼女の伝記への寄せ書きなので、悪いことを書けるはずがないが、逆にヨイショする必要もないため、歯に衣着せぬ意見をきくことができる。
そこから浮かんでくるのは、舞台の上では、不器用なまで、自分の存在を消し、表現、オペラに没頭する彼女の姿である。
余談だが、この本でひそかに私が驚いたのは、「ゲオルギュー」はアラーニャの前に結婚していた旦那さんの姓、つまりルーマニアの名音楽家のファミリーネームだった。この名を使い続ける姿にも彼女の哲学を感じた。
さて、この本を読み終えていないまま、急遽、ノートに向かっているのは、冒頭のニュース見出しに、違和感を覚えたからである。
結論から申しますと
これは、決してプリマドンナの自分勝手な振る舞いではないのではないか?
これは、作品を愛するが故の怒りである。
作品と真剣に向き合うことがデフォルトのゲオルギュー。
私は全くその場にいないのに、ニュースから
彼女の作品への愛情が痛いほど伝わってきた。
この悲劇はゲオルギューのものか?
慣習として「連隊の娘」のテノールのアリアのように、拍手と繰り返しが、お楽しみのひとつになっている作品はある。
もしかしたら、「星は光りぬ」を人気テノールが2回歌うのも現地の文化では普通のことだったのかもしれない。
海外ゲストを迎えた過密スケジュールによる、行き違いもあるだろう。
十分に話し合いがなされていれば、彼女だってここまで怒らなかったはずだ。
記者会見からも感じられるように、この公演は、「アンジェラ・ゲオルギュー」を迎えてのトスカ、つまり、彼女あってのトスカだったはずだ。自分の名前を冠する「トスカ」である以上、プッチーニへの尊敬をこめ、真剣に取り組んでいたに違いない。
「星は光りぬ」は、大変人気のあるアリアだ。
この曲をコンサートにて演奏する場合は、曲おわりと同時にお客様には拍手がする間がある。
しかし、オペラの中では拍手しにくい。というのも歌い終わりで彼の絶望をあらわした低音がそのまま続いて途切れず、深い音がいつしか長調に転調し、夢にまで見たトスカが彼の目の前に登場する・・・というように、アリアからの流れがドラマチックに次のトスカ登場に繋がる場面で歌われるからだ。
余談だが、プッチーニのアリアは、オペラの中で非常に拍手がしにくい。トゥーランドットの「誰も寝てはならぬ」も、オペラ上演中は拍手タイミングがない。拍手で止められないほどの勢いで、音楽が進んでいく、そこにまた醍醐味がある。
想像するに、ゲオルギューは、その時、舞台に駆け込むスタンバイをしていた。
テノールのアリアが終わり気持ちを作って舞台に出たら・・・・テノールが歌い出して驚いたのが現実ではないか?
記事は、テノールが歌い終わると「トスカ役のゲオルギューが突然舞台に飛び出してきて」
とある。
「星は光りぬ」のあと、トスカが走り出してくるのは、全くスコア(楽譜)とおりだから・・・テノールが歌い終わると、トスカの出番というのは間違いない。
今回、プリマドンナの舞台愛溢れる暴走を止められなかったのは、大変残念だった。
彼女の気性の激しさに全て責任を押し付けるような情報の出し方には、怒りを感じる。
Dragă Angela Gheorghiu, sunt de partea ta. Susținem modul în care abordați scena.
私はゲオルギューの味方だよ。と、彼女に伝えたい。
(自動翻訳だから、間違えているかもしれないけれど。)
私は、ゲオルギューの舞台への愛情に
改めて深い尊敬と共感を覚えた。
このような出来事でシュンとするような彼女ではない。輝き続けることだろう。
私も最後まで彼女の伝記を楽しみに読み進めたいとおもう。