心のきれいなあの人と私
「〇〇(友人)て、本当に心がきれいだよね」
私の友人は、いろんな人から「心がきれい」と称賛されている。
悪口を言わない。
愚痴を言わない。
相手が不快になる発言(態度)をしない。
かといって、八方美人でもない。
常に前を向いていて、クリエイティブで、
自分の芯がしっかりしていて、ぶれず、
大切なものをしっかり守り、
誰に対しても平等・公平で、優しい。
そして、メンタルが安定している。
友人の紡ぐ言葉の数々は、ときに叙情的で、
温かさと純粋さが滲み出ており、
友人の人柄そのものを表しているかのようだ。
そんな友人は、当然ながら誰からも好かれていて、信頼も厚く、仲間が多い人である。
対して私は、
悪口を言う。
愚痴も言う。
攻撃的なことも毒付いたことも言う。
ときに相手とぶつかることを厭わない。
いつも何かに葛藤していて、さまざまな負の感情を纏っている。
といった感じで、友人とは悲しいほど真逆な人間だ。
*
私はずっと、友人が羨ましかった。
誰からも好かれ、愛され、仲間が多く、自然と人が集まってくる友人が。
私とは正反対の友人が。
私はその友人と付き合いが長いし、大好きだ。
心の底から、これからも仲良くしたいと思っている。
しかし、その友人を見るたびに、私は自分の心の黒さをコンプレックスに感じるようになっていた。
長年染みついたドロドロしたものは、そう簡単に離れてくれない。
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そんな私だが、実はさまざまな人からよく相談を受ける。
年下や後輩からの相談が多く、恋愛に関しては上下問わず多くの人から相談される。
相談といっても、黙って話を聴くだけの時もあるし、相手がネガティブになりすぎてたら同じ事象の別の解釈を添えてみたり、一緒になって愚痴や悪口を言って発散させることもある。
また、ときには自分の恥ずかしい黒い経験なども開示して、「これに比べたら大したことないよ!」と励ましたりもする。
相手が少しでも元気になってくれて、勇気を持てるのなら、多少皮肉を込めた言い回しでユーモアを交えながら、私のブラックな過去や痛い経験を差し出すことは何の問題でもない。
明け透けにモノを言い、感情のままを態度に出す私に対して、相談者の方々は、
「いろんな表情を見せてくれるから、本音で心を通わせている感じがして、安心して話せる」
と言ってくれる。
何かに悩んだり、苦しんでいるときに話せないのって、とても辛いことだと思うから、
自分が誰かの「話せる相手」になれるのなら、私は黒い自分を隠さずにいたい。
私の黒さやドロドロも、ときに役に立つこともあるのだ。
***
とはいえ、心がきれいな友人のことは、今でもとても羨ましく思う。
できることなら、あんなふうになりたい、って思ったりもする。
きっと今後も、私にとって友人は眩しく見える存在だろう。
ただ、私のドロドロとした感情や体験も、誰かの役に立っているのなら、無理に削ぎ落とす必要はないのかもしれない。
白い友人と、黒い私。
どちらが良い・悪いではない。
どちらも意外な場面で、誰かの心に癒しと安心を与えている。
違うようで同じ。
似ているけれどまったく異なる。
羨ましいくらい眩しい彼のことも、彼に対するコンプレックスも、
まるっと、ずっと、大好きだろう。
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