見出し画像

キャリアカウンセラーのおかちんです。

今日はどんな一日でしたか?



わたしは日常、あまり怒ることはありません。
どちらかというとニコニコと穏やかに過ごしていることが多いです。

モットーは『Love & Peace』
頭にくるようなことも感情的にならず、建設的な話し合いによって、みんなが納得する解決策を探ります。


ですが、どうしても“イラっとすることば”はあります。


それは、


「いいですよ」


年下から言われる「いいですよ」という言葉に、どうしても心がざわつきます。というかムカつきます(笑)


そんなわけで、わたしの中でなにが起きているのか、建設的に考えみましょう♪



1. 「いいですよ」とは許可するという意味

画像1

「いいですよ」の対義語は「ダメですよ」になるでしょうか。

つまり、「いいか悪いかの判断をしている」ことになります。

例えば、わたしが後輩に対して仕事の指示を出したとします。

わたし「○○さん、このデータを確認してくれる?」
後輩「いいですよ」
わたし「う、うん。じゃ、お願いね」(イライラ)

この場合、「いいか悪いか」を判断するのって後輩の役割なのでしょうか?
「できるかできないか」は相手都合なので判断してもらってもよいのですが、「いい悪い」の判断は責任ある指示者にあると思うんです。



2. 悪気がない、でも常識もない

画像1

おそらく本人は、「いい悪い」の判断をしているつもりはないはずです。

「いいですよ」=「わかりました。喜んで引き受けます」

それくらいの意味で使っていると思うんです。

であれば、「かしこまりました」という言葉を使う方が、年長者への敬意を払うこともできてよいのでは?

ですが、その言葉を知らないわけです。もっと年上の方との会話をする機会が少ないためか、敬語をきちんと学ぶことも少ないのだと思います。

結果的に、悪気はないのですが、表現力も語彙力も常識もないという印象を相手に与えてしまいます。



3. 年長者への敬意は不要な世の中になりつつある

画像3

『友達親子』という言葉があります。まるで友達のような、親しい親子関係を指す言葉です。

家庭内での上下関係が徐々に弱まり、対等な人間関係へと変化しつつあるようです。それが職場にも浸透してきているのかもしれません。


例えば、サッカーと野球の違いに近いかもしれません。
サッカー元日本代表の前園真聖さんが以前、このようなことをおっしゃっていました。

サッカーは、ピッチ上では互い呼び捨てにし、完全に対等な関係になるんです。
試合中にコミュニケーションをとる際、いちいち気を使っているほど(時間的な)余裕がないからですね。
もちろんピッチを離れれば、上下関係は絶対です。
その点、野球はずっと敬語で話していますよね。

現代はスピード型の社会です。一度動き出したら一人ひとりの判断で、戦い抜くしかありません。大切なのは、得点する(売上をのばす)ことと、失点しない(損失を出さない)こと。同じチーム内での上下関係まで気を使っているほど余裕がないのかもしれません。



4. わたしが古いタイプなのかも

画像4

わたしは両親を尊敬しています。敬語までは使わないものの、敬意をこめて接しています。いまだに頭が上がりません。
職場でも上司は絶対の存在で、敬語で話し、敬意をもって接します。

それはあまりにも当たり前のことで、何の疑問も抱いていません。

ですが、なぜ当たり前なのでしょうか?


そこには、日本が古来から重んじてきた『儒教』の影響があるのではないでしょうか?
儒教において、親子、上司部下、年長年少など、上下関係は絶対的なもので、逆らうことは一切許されません。

昔のサザエさんをみると、磯野家における波平さんは非常に厳しく絶対的な存在でしたよね。いまでこそ優しくなっていますが……

『一家の大黒柱』という概念も同様です。
『専業主婦』という言葉も同様です。(男尊女卑も含まれています)

どちらかが上で、どちらかが下という考え方が、生まれたときから(その前の親、祖父母、先祖・・・と代々受け継がれて)刷り込まれています。

わたしは昭和生まれですから、見事にこの考え方に染まっています。

古い考えに縛られて、イライラしているのかもしれません。




結局は受け取る側の見方・とらえ次第なのかも

そんな風に考えがたどり着きました。

どうやらわたしの『自己概念』がイライラの原因にあるようですね。
特に、上下関係を(必要以上に)重んじる考え方に強く縛られている傾向が見受けられます。

先日の学びでも、「上司からの指示をどうしても断れない」という相談をしたばかりです(笑) 「断るなんてありえない」とまで口にしましたから、儒教的な考え方にどっぷりと染まっているようです(笑)

言葉づかいにこだわるのも、『敬語は相手を尊敬する気持ちを表す言葉』として大切にし、学び続けてきたからです。
それを他人に押し付けたくなるくらい、自分にとっては大事なものなんでしょうね。

『自己概念』とは、自分が【よしとするものの見方・考え方】のことです。
人は自己概念を通してできごとを捉えています。
例えば上司からの忠告を、「ありがたいお言葉」と思うか、「パワハラだ」と思うかは、この自己概念に要因があるといえます。

別な言い方をすれば『価値観』が近いでしょうか。どんな価値観を抱いているかで、物事の見え方が大きく変わりますよね?



わたしがもし、もう少し現代的なフラットな関係を自然と受け入れられるようになれば、言葉ひとつでイライラすることもなくなるのでしょうか?

そうしたら、ますます『Love & Peace』の実現に近づけるかも??
それはワクワクしますね♪




明日も佳き日でありますように@おかちん

いいなと思ったら応援しよう!