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【物語】馬をうらやんだロバ
久しぶりに物語シリーズを書いてみます。
様々な物語をキャリアカウンセラー視点で捉えてみるという試みです。
イソップ寓話の一つ「馬をうらやんだロバ」というお話しを紹介します。
ある牧場に毎日重い荷物を背負わされ、不味い餌しか与えられないみすぼらしいロバがいた。ロバの小屋の隣には毛並みの良い馬たちが飼われている小屋があった。美味い餌を与えられ丁寧に世話をされる馬たちを見て、ロバは「自分も馬に生まれたかった」とうらやましくてたまらなかった。
しかし、あるとき戦争が始まり、馬たちは軍馬として戦場に連れて行かれ、大怪我をして戻ってきた。戻ってきたうちの一頭がロバに向かって「自分も(徴用されることのない)ロバに生まれたかった」と言った。
これ以降、ロバが馬をうらやむことはなくなった。
いかがでしょうか?
隣の芝は青い―――というお話しに思えますが、わたしはいくつか気になることがありました。
そこで、キャリアカウンセリング視点で捉えてみます。
毎日重い荷物を背負わされ、不味い餌しか与えられないみすぼらしいロバ
これって誰の認識なのでしょう?
それはロバ自身です。
「馬は荷物を背負わされないのに、自分は毎日背負わされている」
「馬は美味しい(と思われる)餌を食べているのに、自分は不味い餌しか与えられていない」
「馬は丁寧に世話をされて毛並みも良いのに、自分は世話もされずにボサボサの毛並みでみすぼらしい」
このように、馬との比較でロバは自分の置かれた状況を認識しています。
もし隣に馬小屋がなければ・・・
もし馬たちの様子が見えなければ・・・
もしロバしか飼っていなかったら・・・
そう考えると、きっとロバのセリフも変わってくるでしょう。
つまりロバの感じていることは、ロバ自身に見えている世界を投影したものといえます。
ロバは「みすぼらしい」と表現しています。ここには、情けない、悔しい、惨め、諦め、辛い、苦しい、憧れ・・・さらには馬や飼い主をも憎む気持ちが含まれているのかもしれません。
一方で、それでも従順に重い荷物を運び続けるロバに、素直さや懸命さを感じます。きっとまじめでいい子なんでしょうね。だけど、隣の馬に憧れる気持ちを抱いてしまった・・・という印象を受けます。
自分も馬に生まれたかった
ロバは本当に『馬』に生まれたかったのでしょうか?
この『馬』という表現には、「自分も美味い餌を与えられ丁寧に世話をされたい」という意味が含まれているように思えます。
「なぜ同じ動物なのにここまで差があるの?」
「どうして馬たちは可愛がられるの?」
「なんでわたしはこんなにみすぼらしいの?」
そんな嘆きが聞こえてきそうです。
それを一言で表したといえるでしょう。
ここまでの状況は、まるでアドラーの「かわいそうなわたし」のようです。
ロバはどうしようもないことと諦めています。ともすれば、馬や飼い主を恨み「悪いあの人」に見立ててしまうかもしれません。
それくらい、誰かと比べて見えてくる現実には力があります。
自分もロバに生まれたかった
これは戦争から大怪我をして戻ってきた一頭の馬のセリフです。
戦争に無理やり連れていかれ、壮絶な戦いの中を駆け巡り、必死の思いで生き延びてきた馬の本音なのでしょう。
「(徴用されることのない)」には、この文章を書いた方の解釈が入っていますが、きっと馬自身も同じことを思っているはずです。
美味しい餌を与えられていたのも、丁寧に世話をしてくれていたのも、すべては「戦争で働いてもらうため」と知った時の馬の気持ちを考えると・・・それは大きなショックだったに違いありません。
馬にとってはこれまでの生活が180度変わって見えたことでしょう。ロバのように重い荷物を背負って不味い餌しか与えられなくても、命までは奪われることのない平和で安心できる生活に、心から憧れたうえでの発言だと思います。
これ以降、ロバが馬をうらやむことはなくなった
ロバもまた、馬の話を聴いて180度見方が変わりました。
うらやんだ馬の生き方が、実は命を落としかねない恐ろしいものだと知り、自分はなんて幸せなんだろうと感じたことでしょう。
これもまた、誰かと比べて見えてくる現実です。
重い荷物を背負い、不味い餌を与えられているという事実は変わりません。ですが、相手は自分よりも大変だと知って、これまでの生活に満足を感じています。おそらく「背負わされている」「不味い餌」「みすぼらしい」なんて言葉は使わなくなったのではないでしょうか。
ただ、馬をうらやむことがなくなったのが「馬の方が不幸だと見えたから」だとすると、これからもロバは悩みが尽きないことでしょう。
もし隣に新しく犬小屋ができて、大活躍する牧羊犬が住んだとしたら・・・
主人に頼りにされ、手厚く世話をしてもらって可愛がられたとしたら・・・
きっとロバはまた同じようにうらやむことでしょう。
自分よりも下がいるということに安堵し、優越感に浸ることで見え方が変わったとするなら、それは自己概念が変わったわけではありません。
ところが、うらやむことがなくなったのが「自分の生き方に気づいたから」なら、ロバは大きく成長するはずです。
例えば、「ご主人が苦労してつくった作物を運ぶために重い荷物を背負っているんだ。作物を待っている人がいて、食べて喜んでくれる人がいて、それを見てご主人はうれしい気持ちになるんだ。そのためのお手伝いをわたしはしているんだ」
こんな風にロバの考え方が変わったのなら、これから先にどんな生き物が隣に住むことになっても、うらやむことはなくなるでしょう。
自分だけの生きがい、使命、あり方、生き方を見出せたとすれば、それは間違いなくロバの将来に輝きをもたらしてくれます。
この物語が伝えたいこと
イソップは、アイソーポスと呼ばれる古代ギリシャの作家で、自身が奴隷だったといわれています。
もしかすると、ロバにはイソップ自身が投影されているのかもしれません。
わたしは、「隣の芝生は青く見える」よりも、「人間万事塞翁が馬」に近いお話しだと感じました。
「モノの見方・捉え方はちょっとしたきっかけで大きく変わることがある」と見えてきます。
そして、「うらやむことは何も生まない」という教訓も。
みなさんはいかがでしたか?
明日も佳き日でありますように