国家は国民の幸福実現を行うためにあるのか?
ニュージーランドのアーダーン首相は日本ではあまり取り上げられないが、日本の社会主義者たちが喜びそうな政策を多々やっている政権だ。
私はアーダーン首相がコロナ対策以外も含めて、ニュージーランド政治史に残る政治家だと考えている。アーダーン政権は労働党のアイデンティティーを体現した歴史的政権といえるだろう。
中でも「幸福予算」は日本国内でも今後、社会保障議論の際に出てきそうなものだ。国家が国民の幸福を保障するというのは国民の自立心が相当向上していないと考慮すべきものではないだろうし、行政組織の拡大は社会において必ずしもいいものではない。
政府は国民の幸福実現のためにあるという社会主義的発想が様々な活動家の中で共有されているわけだが、国家が国民の幸福実現を行うというのは幸福にするための予算を国民から徴収するということを意味する。小さな政府を掲げる識者叩きが最近、SNSを中心に増えてきているように思えるが、かつてハイエクやフリードマンのような自由主義系の学者も貧困解消対策を提案している。
貧困問題を捨て置けとは言わない。
幸福予算も行政の無駄を排除した後であれば議論されてもいいと考える。
日本学術会議問題でも明らかになっているが国民が知らないだけで税金の無駄は存在している。これらを解消することがなによりも優先すべき点だ。
本来国家が国民の幸福実現を達成するなどという話は不可解なものだが、ニュージーランドの幸福予算が考えている子供の幸福支援は共感できる。
行政の無駄を排した後であれば考慮してもいいのではないだろうか。投資すべきところに国家が税金を投じるのは悪いことではない。将来性のある分野への投資であればこれは奨励されてもいいと考える。少子化対策として金を個々に配るのもいいが、子供が育てやすい環境づくりを奨励し、税金をかけることは国家においていいことではないだろうか。