立憲民主党の審議拒否報道に見る官僚神話の弊害
与党が提出した法案に「誤字・脱字」があったということで立憲民主党は審議拒否を示唆したということで批判が集まっている。立憲民主党の与党の批判の酷さはとても選挙を控える政党の行動とは思えない。
私は前々から日本の立法府はその形を再考すべきだと考えているが、この報道を見て改めてその必要性を切に感じた。日本の立法府の構成員である議員が自ら法案を提出せずに、官僚製作の法案のミスを責めて、それを口実にして議会を欠席しようとする。このような議会の現状は先進国として恥ずかしいことで残念でならない。
官僚のミスくらい立法府の議員たちが自ら訂正するなり、むしろ積極的に審議して仕事に邁進すべきだと感じるのだ。本来であれば日本の議員はアメリカのように自ら法案をつくり提出するのが仕事として求められているのだが、これを官僚に依存して任せていることは改善すべき問題なのである。
官僚は間違う。これは当たり前だ。「だって人間だもの」。日本の官僚は優秀、だから間違わないという論理であるならば、全知全能の官僚による独裁で日本社会は素晴らしいものになっているだろう。
しかし、当然のことながらそんなことはない。官僚は全知全能ではないのだ。日本は官僚への神話を高く持ち過ぎのように感じる。現在の官僚に法案をつくらせるのは本来であれば官僚の仕事ではない。官僚は議会で決まった法案を社会に適合させるのが仕事で受動的なのだ。
現在の法案立案を行い、政府提出案として審議させるというような能動的な状態は異常だと考える。このような現状は官僚のブラック化を招き労働環境に悪影響を与えているのだ。
健全な議会へ、そして官僚支配からの脱却。これは官僚の労働環境の改善、議員の質改善など多くの点で政治改革になる。立憲民主党は政府提出案のミスを利用して審議拒否するのではなく、むしろ外部のシンクタンクなどを通じて議員が自ら政府に対抗するような法案をつくり議論させるなど選挙に向けた議会での対立構造を下世話なスキャンダルとは別に作らないことには国民からの支持が広がらない。
内閣不信任案の提出なども考えているようだが、何を理由にするのか。まさか下世話なスキャンダルが理由なのか。そんなことはどうでもいい。ゼロコロナを政府に対抗して掲げるのであれば、政府のコロナ対策方針に対抗するような保障案などを積極的に議論し万機公論に決すべきではないか。
官僚のミス程度で議会が止まるなどということは国民への誠意を示しているものとは到底考えられない。この逐一いちゃもんをつけて動きを止めることを続けることこそこの国でバカみたいな手続き大事国家へとなってしまう要因でもある。多少のミスくらい議員でどうにかしろ。なんなら行政府に関わってない立法府が積極的にこの監視を行い訂正して議論を起こすことの方が重要である。
今回の事件を経て野党の政策能力や議員としての問題点が露呈した一方で、官僚の仕事を減らすために官僚に政策を立案をさせる状態からの脱却の必要だということも改めて理解した。
これを機に官僚から脱却し党議拘束も廃止して自由な討議を議会内で議員を中心として立法府の本来の姿へと変化していくべきだ。官僚のブラック化も官僚の増加で補うのではなく、議員に仕事をさせ、行政府の規模を縮小させ、官僚ではないシンクタンクと共に議員が政策立案実現に向けた議論を行うという方向に向かうことでようやく戦後日本の議会政治は成長するように思える。