死と向き合う
おはようございます。こんにちは。こんばんは。
このページに辿り着いて、私と出会ってくださり、ありがとうございます。
日本のどこかで大学生として日々を過ごしている、ぱんだ。です。
⚠️今回のお話は少し重い内容となっています。ご了承ください。⚠️
最近、個人的に死と向き合うことがありました。
頭でわかっていても心が追いつかない、実感が湧かないとはこのことなんだなと、
初めて感じました。
生物として生きている限り、いつかは迎える「死」
私はどのような死を遂げるのでしょうか。
どこかで聞いたことがあります。
「生まれる時、自分は泣いて周りは笑う。死ぬ時は、自分は笑って周りが泣く。」
この言葉通り、私の死を悲しんでくれる人はいるのでしょうか。
そこにいる人は幸せだったのでしょうか。
その方との思い出には笑顔あふれる自分の姿があればいいなと思います。
もう会えないことに泣いてくれる、そんな方々に恵まれて生きていけたら。
いや、その方々を見送った後で空に旅立ちたいな。
哲学対話の記録を今後アップロードしようと思っているのですが、今日も少し、自分が思うことについて綴ります。
生きることと生かされることについて。
認知症の人は、自分が誰だかわからない、ここがどこかもわからない。
外に出れば家がわからない、そんな毎日。
愛する人との日常がまるでなかったかのように振る舞われることもあるでしょう。
例えば、その間に起きた事件で、周りの人に深い傷を負わせることになったら?
その人にとってトラウマになってしまうような。
やりたくてやったことじゃなくても、それで嫌いになってしまったら。
寂しいじゃないですか。
例えば、意識はない。栄養も点滴でとっている。管に繋がれ寝ている状態。
ショック性の植物人間とはまた違う、高齢の方だとしましょう。栄養も取れず痩せほそり、ただ自発呼吸ができなくなるのを待つ日々。
もしも安楽死制度が取り入れられたら。本人の意思を尊重できる可能性は低いのじゃないかと思います。
生きているのか、生かされているのか、それを受け取るのは他人で。
本人は意識がない、記憶がない。
末期癌とかだったらまた話は変わりますが。
誰もが人の死の日を決定できない。それは殺人、犯罪になるから。
生かされているのはどうなんでしょうか。
もちろん私は医学の知識があるわけではありませんし、法律についても倫理についてもわからないことだらけです。
ただここにあるのは「なぜ?」と問う心だけ。
きっとこのお話は十人十色の考えがあると思います。
あなたの考えを聞かせてください。
5月8日 勉強机にて。 ぱんだ。🐼