ショート・棺パイ・ショート
『トラウマってさ、自分の意思では消せない記憶でしょ。』
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5月の夜は風が心地よく吹いていた。
ようやく仕事を終えた23時、上司と共に駅に向かう。
朝は土砂降りだったのに、すっかり雨はやみ、役目のなくなったビニール傘をふらふらと揺らしながら、私は少し前を歩く上司を見ていた。
また、変な咳をしている。
仕事中もやたらと咳き込んでいて、しかし普段から病弱そうな顔をしているだけにあまり気に留めていなかったのだが。
「病院行ったらどうですか?」
「え?」
「その、咳。」
驚いて足を止めた上司は、あぁ。と一考して振り返った。
「良くなっちゃうでしょ。」
と、何故か微笑んでいた。
用意していた返しと真反対のことを言われ私はフリーズする。同時に、この人らしいなとも思った。
「そっか。ない金払って生かされても、ですね。」
「そう。」
「じゃあ、どんな葬式にしたいですか?」
質問しておいて、我ながら突拍子もないことを言った。まあ良いか。興味はあったし、本当に聞きたいことだった。
「うーん。花の代わりにパイ生地とかで埋めて欲しい」
ほら、火葬場をBBQ会場だと思っている人なのだ。
「そしたら、骨拾う箸じゃなくて、スプーンとフォーク配りましょうか」
「あと具を甘いのとしょっぱいので分けて欲しいな。皆食べれるように、苦手なのあると困るでしょ?」
「葬儀場で聞きたくないセリフトップ3に『いい匂〜い!そろそろ焼き上がりますよ〜!』は入りそうですけどね」
上司はけらけらと笑い、そして咳をする。
青信号は点滅し、横断歩道の向こうにある駅の看板が、やけに眩しかった。
「楽しい思い出か、圧倒的なトラウマを残して死にたいな」
私は上司の葬式を思い浮かべ、阿鼻叫喚する子どもを想像して笑った。
上司らしい。
雨の染みた階段を登り、改札を通る。
蛍光灯のぼんやりした光は、余計に青白くさせていた。
別れ際に手を振って私は笑う。
「病院、行ってくださいよ」
そうして上司は手をひらひらと返して、消えていった。
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