体験(3)父の逝去と永遠の生命

「ああ,謝りたい。謝りたいねえ」と,末期の癌で病室のベッドに3か月間仰臥したままの父が突然言った。「お父さん,誰にそんな謝らなくちゃならないことがあるの」
昔,母にさんざん苦労をかけたからか,それとも若い頃に親不孝でもしたのか。
だが,父の言葉は思いがけないものだった。父は遠くを見つめるようにして言った。

「大御本尊さま」

そんな言葉が出るとは,全く予想しなかった。創価学会が大嫌いで,母の入信に猛反対。仏壇を鉈で壊し,御本尊を破って捨てたこともあった。その後,死にそうな目に遭って,すっかり改心し,学会活動に励むようになり,役職も受け,御書講義もするようになった。
だが,何かをきっかけに再び信心から遠ざかった。

私は6番目に生まれた末っ子の一人娘で,男兄弟と息子しかいなかった父にとって,まさに目に入れても痛くない,掌中の珠のような存在だったのだろう。親とは言え,よくここまで子を愛せるものかと思う程,父は私を大切にしてくれた。作文が上手だと言っては褒め,道で拾ったお金を交番に届けたと言っては褒め,何をしても,褒めてくれた。

うちは先祖代々,日本刀研磨師の家だったが,明治生まれの父の青春時代は,日本が戦勝国で経済的に豊かな時代だったのか,次々と入ってくる西洋文化を享受したようだ。ライカのカメラを持ち,バイオリンを弾き,クラシック音楽のレコードを集め,西洋料理を楽しんだようで,私は美しいもの,楽しいもの,美味しいものは,すべて父から教わった。米のとぎ方や勉強ノートの取り方も父から教わった。職人気質で誇り高く,創価学会も学会員も見下していたが,唯一,和泉副会長から頂いた激励の手紙は生涯大事にしていた。

50年間,日本刀を研ぎ続け,気づいた時には全身に癌が広がっていた。どれほどの痛みだろうか。モルヒネも効かなくなり,ベッドの手すりにしがみついて,痛みに震えていることもあった。当時は病室に家族が寝泊まりできた。母は仕事をしていたので,私が病室に泊まり,24時間付き添い,父の枕元で毎日一万遍の題目を上げていた。

ある日,私は父を叱り飛ばした「お父さん!お父さんはこんなにも苦しいのに,どうして題目が唱えられないの!」当時,癌は患者本人に告知されない時代だった。だから父にも本当の病名は知らされていなかったが,私はさらに追い打ちをかけた。「お父さんはね,癌なんだよ!」背水の陣だった。
瀕死の親を叱り飛ばすとは,なんという娘だろうか。だが,私以外,誰がそれを言えるか。もう,父はまともな会話もできないほど弱っていたが,小さい声で「唱えているよ,唱えているよ」とだけ答えた。

そんな時,突然,「大御本尊さまに謝りたい」と言ったのだ。

御本尊さまでなく「大御本尊さま」と確かに父は言った。びっくりすると同時に,これほどまでに苦しまなければ,御本尊を求めることができない父があまりにも可哀そうで,「お父さん,諸罪は霜露の如くに法華経の日輪に値い奉りて消ゆべしという御書があるよ。だから大丈夫なんだよ」とその背中を摩りながら,泣けて泣けて仕方なかった。

その晩のことである。2か月間も点滴だけで生きてきた父に排便があった。尾籠な話で申し訳ないが,それは便というより,緑色の何かわからない物体だった。無臭だった。その後,1週間にわたり,便のようなものは120回排泄されたが,そのうちに,68歳の父の肌が赤ん坊のようにつやつやとピンク色になってきたではないか。

一体何が起きているのか。医師も看護師も不思議がったが,私は癌細胞が体の外に排出されていることを確信した。さらに,モルヒネも必要なくなり,どこも痛くないと言い出した。兄が持ってきた寿司を少し食べ,ビールも一口飲んだ。一番の好物だ。
母が来た時,父は「帰りたいよ」と言った。「お父さん,どこに帰りたいの?うちに帰るの?」と母が聞くと,「どこでもええ。あんたと一緒なら,どこでもええよ」とだけ言った。

こんなに元気になってしまったのでは,本当に退院できるのではないかと思ったが,3月24日の午前2時ごろ,父はベッドに仰臥したまま,突然,病棟に響き渡るような大きな声で題目を唱えだしたのだ。

南無妙法蓮華経,南無妙法蓮華経,南無妙法蓮華経,南無妙法蓮華経……

眠っていた私は飛び起きて,「お父さん,どうしたの」と側によると,父は静かになって「うん,ちょっと苦しかったっけ」と言った。午前11時40分,父は花が好きなので,新しい花を買いに行こうと思ったが,もう1時間題目を唱えてから行こうと思い,いつものように父の枕元で題目を唱え始めた。今日は,なんだか静かにしているなと思い,「お父さん,大丈夫?」と聞くと,「だいじょうぶ,だいじょうぶ」と静かに答えた。

その時だった。突然,父の心臓が止まったのだ。病室の隣がナースステーションだったので,すぐに看護師も担当医師も駆け付け,強心剤を打ち,心臓マッサージが行われたが,私はすでに父が亡くなっていることを直感した。母や兄たちがあたふたと駆け付け,皆,取り乱していたが,一番若い私は冷静で,医師や看護師たちに丁寧にお礼を言う余裕があった。

病院の多くの方々が見送って下さり,父は帰宅した。通夜と葬儀の間,顔も身体もあまりにきれいで,兄は信心していなかったが,来る人ごとに父を見せ,「妹の題目で成仏したんです」と言っていた。仏法では宿命転換を説くが,父にとって,癌を克服したことが宿命転換ではなく,御本尊を求めることが出来たことが宿命転換だと思う。

あれから45年が経つが,今でも思う。父は確かに「大御本尊さま」と言った。「御本尊さま」ではなかった。死を前にした人が見たものは,一体何だったのだろう。

死生学に著書の多い研究者や医師たちは,人が亡くなる瞬間,たいてい家族はそばにいないものだと言っている。しかし,私は父の心臓が止まるまさにその瞬間を見た。他の家族も医師も看護師もいなかった。私一人が見た。それは,父と私の縁の深さ,濃さを示すものなのだろう。

仏法では生命は永遠であると説いている。あれほど私を愛した人が,再び,私に会いたいと思わないはずがない。今世で,私はすでに再会していると思っている。