組織と理想の指導者像(1)ゆるぎなき組織づくり(2)「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第39回
幹部教育の方法
あくまでも、団結を守ることが、最大の眼目である。その点で、池田の指都は、いっそうキメが細かい。
「第一によく気がきき、みんなが納得できる幹部になってもらいたい。第二に後輩に自信を与える指導者になってもらいたい。私の前でペコペコして、よそへ行って、威張ったりするのではいけない。第三にさっぱりした感じのよい幹部になってもらいたい。腹黒い陰険なのは困る。そういう幹部は、みんなで追放しましょう。また何でも相談にのってくれる幹部になってもらいたい。確信のある聡明な幹部にならなくてはいけない」(講演)
池田のこのような幹部教育は、会長となってから思いついたことではない。すでに彼が戸田に師事していた二十五、六歳の頃から堅く心に決めていたことだ。「若き日の日記」にこう綴っている 。
「青年を大事にする先輩は少ない。否、いな 。自分のことで精一杯なのだ。先生なきあと、各先輩が、次期の人材を育てることを忘却したら、広布の総仕上げができぬことを反省してもらいたい。信心にかこつけて、尊敬されゆく役職を、私は心配する」
「後輩を大事にしよう。後輩を、吾れより偉くせねばならぬ。これが先輩の幹部の使命と自覚する」
だから池田は、命令が感情的になったりすることには、とくに注意を促がす。
「言葉遣いに気をつけていただきたい。とくに幹部の不用意な発言によって、後輩がやる気をなくしてしまうようなことがあってはならない。幹部は後輩の幸福、成長を願う媒介役として存在していることを、くれぐれも銘記してほしいのです」(講演)
二重の組織運営
そうした池田の指導は現実に組織の内部に反映している。土躍日ごと、全国二万数千か所で開かれる座談会。そこには商店の経営者とその従業員、会社の璽役と社員、老人、主婦、学生など、様々な人たちが参加する。しかし、学会の役職、社会的地位、年令差はない。みんな平等であることを自覚し、お互いに体験などを語り、励ましの中に人間対人間の、生きた関係をつくりあげていくのである。
ある学者は創価学会の役職を「宗教的能力主義による出世制度」の感覚でとらえている。「そこにサブカルチャーたるゆえんがある」といった趣旨だったように記憶するが、臆測をもとに批判するのでなく、いちど自分の目でその実態をみる必要がありそうだ。
「源遠ければ」に対応する組織論の定義で、もう 一つ。
「根深ければ枝繁し。枝の先端がどうなっているかをみて根はどうかを見較べる。これをいつも考えることです。毛沢東が国内をよく歩くというのも、ここにあると思う。両方をみて、自分の姿勢を考えないと、結局権威主義に堕してしまう。簡潔な言築だが、出来るようでできないことだ
池田の地方指導。そこでは 一般会員との接触を通じて指導が全国のすみずみまで行き渡っているか、組織の歯車が正常に回転しているかどうかに、いつも気が配られているわけだ。
このように、幹部の側からと、一般会員の側から二重の組織点検、ここに組織運営に対する池田の深い配慮と方法論がある。
それというのも、組織を動かすものは一握りの幹部ではなく、大衆一人一人だという考えに徹しているためであろう 。
人が機構を作る
池田は聖教新聞紙上に執筆した「人間革命」に最近つぎのように書いている。
「組織は、ことごとく生きていなければならぬ。人が集まれば、そこで組織が出来るという安易さから、いまこそ脱却すべき時だ。組織の各部門が、それぞれ磨きあげられた強靱な歯車となって、たがいにぴたりと噛み合って回転をはじめた時、はじめて生き生きとした組織が、幸福と安泰とのために回転する」
これをみても、創価学会の強固な組織は、ただ、信心を同じくするものが集まって偶然にでき上がったものではない。
そこには、組織運営に対する池田の細心な神経と、なみなみならぬ努力が隠されている。
「創価学会は旧軍隊組織を取り入れているから強いのではないか」といった外部の推測を私は何人かの人から聞かされている。だが、現在の学会の組織は、軍隊の名称よりも、一般の名称の方が多い。のみならず池田の組織論では、機構とか制度はあくまで二義的なものだ。機構が人を動かすのでなく、人が機構を動かさねばならぬという考えに徹するからである。それは創価学会の現在の制度が、底辺の広がるにつれてポストが増え、大ビラミッド型に形成された事実をみても明らかだろう。その点について池田は「基本的には戸田前会長が考えてくれたものだが、何度か試行錯誤を重ねて決まってきたものです」という。
完璧組織の成果
指導者の一言一言が組織の隅々にまで敏感に反応し、反響する生きた組織、それを示した四十二年の東京文化祭は多くの人たちに一種の感動を与えた。
A社社長「組織と指導と訓練が究璧にできれば、あれほどすばらしいものができるということを知って深い感銘を受けた。私はぜひ、これらの優れたものを企業のなかに取り入れたいと考えている」
B社重役「参加している人たちの精魂こめた演技、熱意、気迫がひしひしと身辺に迫り、一挙手一投足に感嘆、驚異の連続でした」
画家「マスゲームで、何千人の青年が全速力でかけ回りながら、終始統制のとれた行動をとっていたのには驚かされた」
大学教授「国民のなかにある一種のエネルギーが高度に組織化され、実現されたものだと考えるが、こうしたことはほかでも実現されてよいのではないか。ただ現在のところ、創価学会だけがそれを実現させている点で、やはり将来の力といえるかもしれない」
外国人学者「この巨大な文化祭が号令一つなく、優美な音楽だけで指揮され、終始、整然と展開されるのには驚いた。まさに 世界的総合芸術であった」
マスコミ関係者「あの偉業をなしとげたものこそ、創価学会の本質であるに違いない。それは一口にいえば、多数の人間が共通の目的に向って自発的に共通の行動に参加することであろう」
C社重役「これが一糸乱れぬ量の演技を完成させた秘密だと思いました。私たち産業人にとって、その点深く感じさせられるものがありました」
一般組織との比較
文化祭に示された、団結のエネルギーは、多くの従業員をかかえる大企業の経営者には、とくに考えさせるものがあったようだ。そして最近、マネージメントの面から、創価学会の組織運営を研究している経営研究家がいるとも聞く。
たしかに、池田の組織運営は、単に創価学会に限らず、組織運営の普遍的原理を含んでいると私は思う。
たとえば企業。はたして適材適所が行なわれているか。本来組織運営の効率をはかるため役職者が形式主義に流れていないか。また頂点に立つものが、最末端の社員としばしばひざを交えて、企業の理念、自分の方針の徹底を確かめているか。
経営者たちがその両面から、組織の歯車の回転ぶりを始終点検しているかどうかである 。もっとも、それだけで組織が創価学会と同じようなエネルギーを発揮できるかどうかは疑わしい。なぜなら、問題は最高指導者の人間性、指導性にもよるからだ。
従業員は何万という大会社の課長補佐,年二度遠くから社長の顔をみるだけ。某相互銀行の若年社、入社三年まだ頭取の顔を近くでみたこともない。
こんな話のあとで、池田はいった。
「これでは組織は生きてはいない。人も生かされない」
数年前、徳川家康が一部経営者にもてはやされたようだが、組織運営に関しても池田の行き方は時代の先端をいっているといってよい。その面で、ひとのうえに立つ立場の人々は、池田に学ぶ必要があるだろう。
最後に組織の現状についての所感をきいた私に 、
「 欲目にみて、うまくいっていると思います」という池田の表情には豊かな自信があふれていた。