『唯脳論』の社会観
『正欲』の社会を書いていたら『唯脳論』の社会観を思い出した。養老孟子氏の『唯脳論』には、むちゃくちゃ影響を受け続けている。
二十年以上前の作品である。当時、脳の話をする人は珍しかった。というよりほとんどいなかった。わたしも世間知らずで若かったけれど、養老さんも今のような「猫と虫好きなおじいちゃん」というイメージはなくて、どちらかというと愛想の悪いキレッキレの東大教授だった。
「知ったことではない。」といったぶっきらぼうな文体は、何だか怒られてるような感じがしないでもなかった。
ところが書いてることがとにかく知らないことだらけでおもしろい。気づいたらすっかりファンになっていた。
今も養老さんの言動はとても気になる。
唯脳論いわく、
脳化とは、より大きな脳へと進化することらしい。脳が大きくなるとどうなるかというと、妄想部分がどんどん大きくなって、そのうち身体とか自然を無視するようになっていくという。なんかそのとおりになってる感じがしてこわい。
脳の機能をわざわざ「心」と言い換えるのは、身体性を薄め、やがて死ぬということを考えないようにするためなんだとか。
脳や社会は身体を嫌う。身体の一部である脳もまた、いずれ死によって滅ぼされるからだ。だからなのかどうかは知らないけれど、脳は死をないものにする傾向があるという。
脳上の社会と身体上の個人、折り合うのはむずかしそうだ。
社会が脳の妄想で身体が現実という感じだろうか。
妄想と現実で思い出すのが森見登美彦氏の『シャーロック・ホームズの凱旋』である。この作品では京都の物語とロンドンの物語が錯綜する。どっちの世界にもシャーロック・ホームズをはじめ、お馴染みのメンバーが暮らしている。
京都の世界とロンドンの世界、どっちが幻でどっちが現実か、わからなくなる怪しげな部屋が出てくる。異界へ吸い込まれてしまうふしぎな穴の正体とは。
これこそ脳上の社会と身体上の現実の錯綜ではないか。
妄想と現実、脳と身体、どんなに折り合い困難であっても、つどつどいい塩梅な地点を探し求めるのが人生かもしれない。
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