退職前夜のリエット
随分と前から、皆が優しくて憂鬱だった。
かねてより退職したいと申し出ていた会社を、ようやく辞める。周りが引き止めてくれたり、優しくしてくれたりすればするほど、自分がとんでもない裏切者のような気持ちになって辛い。
返却する社用携帯から、写真を1枚ずつ消していく。どうして写真は良いことしか残してくれないの。悔しくてやりきれないことも、絶望したことも、確かにあったのに。
小さなカードに、1枚1枚ありがとうを書いていく。浄化される。感謝だけが残り、じわりと罪悪感が広がる。
いつもより遅く夫が帰宅し、ご飯をよそって出した。それを見ながら、お腹がぐうと鳴る。
やだ、わたし晩ごはんを食べていないじゃないか。子ども達が食べているときはお腹が空いていなくて、夫と一緒に食べようと思っていたんだった。
もう晩ごはんは残っていない。食事を忘れるなんてこと、人生で初めてかもしれない。なにしてるんだ。なに心を持っていかれてるんだ。
よし、と腰を上げて冷蔵庫のドアを開ける。
頂き物の豚のリエット
瓶詰めのブラックオリーブ
スーパーで買ったカマンベールチーズ
それからフランス産のソーヴィニオン・ブラン
密かな宝物たちを食卓に並べ、パントリーからクラッカーを取り出す。
隣ではカタカタと、夫がパソコンに向かっている。仕事熱心な人だ。彼は優しいけど、私の不安定には気づかない。でも、気づかなくてもいい。
薄いクラッカーにリエットを塗り、ひとくち齧る。ふんわりと、ハーブのような爽やかな香りと、豚の脂の優しい甘さが舌に溶ける。こみ上げてくる何かを、キリッとしたワインで流し込む。 思い出も、申し訳ない気持ちも、愛情も、ぜんぶ冷たい白ワインで流しこむ。
ブラックオリーブをつまむ。カマンベールを小さく切る。クラッカーにリエットを塗る。淡々と口に運ぶ。ワインを飲み干す。
私は未熟だと思う。
自己中だと思う。
でも、私は自分が好きだから、
申し訳なさに人生を支配されたくない。
夜更けの自分に、美味しいリエットを食べさせて眠る。
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