
書評:リプリー、アマンダ (2024)『よい対立、悪い対立--世界を二極化させないために』)ディスカヴァー・トゥエンティワン
リプリー、アマンダ (2024)『よい対立、悪い対立--世界を二極化させないために』(岩田佳代子訳)ディスカヴァー・トゥエンティワン
https://d21.co.jp/book/detail/978-4-7993-3047-0
良書。
少なくても、私にとってはこの上もない良書であった。少なくともこれまでの2025年の中では最良の書だ(あと一冊だけ読んでる)。この本の骨子は、「悪い対立」がいかに生じ、それがエスカレートするのか、そして、その悪い対立から抜け出るのはどうしたらいいのかを明らかにする本である。
この本を読んだきっかけは「積読チャンネル」と言うYouTubeのチャンネルである。本書では、更正したギャングが、自分が周りの環境からいかに抜けてたかを小説のように紹介しており、それを学術的な知見ととも論じていると、同チャンネルでは紹介されていたので、興味を持って手に乗った。結果、それ以上の知見を知ることができた。
■本書の概要
本書での議論を簡単にまとめると次のようになる。
世の中には対立が溢れている。しかし、その大半は良い対立だ。世の中を良くし、他者理解を促進させる類の対立だ。対立がなければ社会は成り立たない。しかし、世の中にはごく一部の「悪い対立」がある。
悪い対立とは、当事者に不利益しかもたらさず、抜け出そうとしても抜け出せなくなる類の対立である。例えば、内戦、ギャングの抗争、町内会の住民間での対立などが本書にはあがっている。これら悪い対立の特徴を端的に示すと、大抵の場合、他者を集団としてカテゴライズし、相手のことを決め込んでいるという特徴がある。例えば、発電所の誘致に対する「賛成派」と「反対派」などである。例えば「賛成派のやつらはカネが欲しさに村をめちゃくちゃにしようとしている」というように集団でカテゴライズし、その集団に対して思い込みで考えるというものである(これは本に書かれているのではなく、私が作った例だ)。
こうした集団のカテゴライズが悪い対立をあおることになる。そのメカニズムは次の二つでなりたつ。
第一に、拡大解釈である。ある集団のひとりがやったことが集団に反映される。例えば、ギャングAのビリーさんが、ギャングBのメンバーを殺したとすると、それがギャングの抗争とは関係がない支援であっても、ギャングAとギャングBの抗争に火がついてしまうということである。このように一人の振る舞いが集団全体を代表されることで対立が激化する。
第二に、レッテル貼りである。俺たち集団はこうであり、彼ら集団はこうであるというような思い込みが一人走りし、自然と「俺たちは良くて、あいつらは悪い」という対立構造が作られる。
本書では、こうした内容が事例とともに論じられており、わかりやすく対立がエスカレートするメカニズムが読み取れる。ギャングの抗争から町内会の対立、自然保護運動など、さまざまな事例がひかれていることで、これら一見、異なる対立が同じメカニズムで動いているんだということがイメージしやすい。ギャングの抗争や内戦で起こっていることは、我々が身近で経験する対立とさほど変わらないメカニズムで成り立っているのだ。いずれの場合も、感情に訴えることで対立を煽ったり、人は(意識的であれ無意識的であれ)物事をカテゴライズして考えるという本能が対立のエスカレートと関わっている。
では、そうした対立が起こった場合、それを解消するためにはどうしたらよいのか、そのポイントは二つある。第一に対立の争点となっているカテゴリーを解消することである。対立集団のメンバーが一緒に作業をする(話し合うだけでは不十分)、あるいは、集団のメンバーに個として接するという作業がその具体的な方策として挙げられていた。
事例としては、シカゴのある地区で一つの教会が対立する二つのギャングのメンバーを集めてバスケットボール大会を主催したことであった。それで対立を解消しようというのだ。この大会のうまい点としてはプロのバスケットボール選手をコーチとして引っ張ってきたことである。カテゴリの解消の際に対立する集団のどちらもが受け入れられる権威を利用するとよいと本書では記されているが、その一つがプロのバスケットボール選手なのだ。プロのバスケットボール選手と接したいことから、ギャングたちはバスケットボール大会の練習に参加するようになり、お互いに交流が生まれた。そこから二つのギャングの間でコミュニケーションが取れるようになったという。さらにはコミュニケーションの手段ができたことから、争いを避けるためのシステムがいろいろ生まれた。例えば、相手ギャングの支配地域に踏み込まないといったるルールや、SNS投稿の際の決め事などである。
第二に他者理解である。集団を集団として理解しようとしてはいけない。他者集団の属する個々人と個人的に接する必要があるという。個々人と接することにより、対立する集団にいる個が感情のある人間として浮かび上がってくる。
面白い事例だなと思ったのはユダヤ人ニューヨーカーとミシガン州の白人の交流である。ユダヤ人ニューヨーカーは、ユダヤ教徒で民主党支持者で、銃の規制に賛成で、移民受け入れ賛成といった考えを持つ。その一方、ミシガン州の白人は、共和党支持者でドナルド・トランプが大好き、銃に慣れ親しみ規制など論外、移民は仕事を奪う悪者だと考えている。その二つの集団に属する個々人が、ニューヨークやミシガンを訪ね、交流したり討論したりするという話である。この中で描かれているのは、お互いにホームステイをしあったり交流することを通して、お互いの考えを理解をするようになる。その考えは納得はできないが理解はできる。「共和党のやつらはこうだ」と考えるステレオタイプを捨て、実際に共和党の人々と交わることで彼らの考えが見えてくる。逆もまたしかり。ここでは、理解することが重要であり、それはその考えを受け入れることとは異なる。
このように集団ではなく個として人々を理解し、対立相手や自らを対立する集団として捉えないことで悪い対立は解消できるという。そこに残されたのは良い対立だ。すなわち、違いを認め、議論を重ねることで社会をうまくまわしていくような対立である。
■本書に対する評価
こうした内容の本であるが、私にとっては自分がこれまでやってきた他者理解という作業を改めて理解することにつながった。私は文化人類学の立場から紛争を研究しているため、①異文化理解としての他者理解、②集団(民族紛争の当事者集団たち)に対する他者理解、のふたつの仕事をしなければならない。もちろん、それに加えて私は一人の個人である。③個人としては仕事仲間や友人、パートナー、家族などさまざまな個人に対する理解を深めることになる。
この本を読んで気づいたのは、この3つの他者理解の根本は同じである、あるいは、同じにしなければならないということである。個人と向き合いその人そのものを理解することは、その人の属する集団を理解することにつながる。ゆえにフィールドで文化人類学者として行う他者理解も、飲み屋で友人と向かい合って話すことも実は同じ作業ではないかと思えてきたのだ。もちろん、他者理解の形は人により異なる。ただし、僕の場合は、異文化理解も政治分析も、友人に対する理解を深めることも同じ作業になってきたのだ。
人間社会に生きている限り、誰も何かのカテゴリーに属しているわけだ。そう考えるとある一人の人間に対する理解を深めることは、ある特定の集団理解に繋がる。例えば、パートナーが大阪出身の学校教員であったとしよう。その場合、パートナーに対する理解を深めることは、学校教員に対する理解を深めることにも繋がっているし、大阪人を理解することにもつながっているのだ。さらにパートナーがアニオタであれば、アニオタに対する理解も深まるに違いない。このようにひとりの個人を理解することは、その人の属する集団を理解することでもある。
そんなことを薄々感じていたのだが言語化ができなかった。しかし、本書に描かれている個人と集団との関係、さらに、紛争解決するために、誰かが他者を理解したり、他者が関わる集団にアプローチする記述を見ていく中で、自分のやってる3つの他者理解が1つの同じ行為であると言うのに気づいた。もちろん私が研究の中で対立の解消をできるような行為をしているわけではない。あくまでも物書きのためのリサーチに過ぎない。それでも他者理解の仕方は、対立を解消したいという本書の主張と通ずるものがある。そうした気づきを得た事は、個人的には大きな成果だった。
日常生活の中では誰かと向かい合い、その誰かを個人として理解するという作業は、社会生活を送る一人の人間である限り避けられないだろう。それは延々と続く。私たちは年を取るにつれて、試行錯誤を重ね、どのように人と関わるべきかを学び、自分の考えを更新していくことになる。こうした作業を繰り返す中で、人は自然の対立を解消し、他者理解を深めていくノウハウを獲得していくのだろう。おそれくそれが人として「まるくなる」ということだ。
最後に、本書の問題点を記しておこう。最も気になった問題点は事例を書き散らかしているとことだろうか。 4つ5つのメインな事例があるとともに細かな事例がたくさん本書にはちりばめられている。しかもその事例がかわるがわる繰り返し登場するのだ。なので読んでいるうちに、どの事例の話なのかがたまにわからなくなる。でも、それでもなんとかついていくと面白い学術的な知見が詰まっている。3分の2くらいは事例を書き散らかしてる感じがあるが徐々に収斂されていく感じだ。こうした読みにくさはあれ、本書は読者を引き込ませる魅力を持っており、十分に読み進めることができる。正月から良書にであった。今年も良い年に違いない。