書評:岡田憲治『政治学者、PTA会長になる』これは紛争解決の話だ。
すごい本だ。期待を裏切らない一方で、だいぶ期待を裏切ってきた。面白くて二日で読んだ。ちょうど、『よい対立、悪い対立』(アマンダ・リプリー著)を読んだばかりであり、その内容とシンクロした部分もかなりあった。このタイミングもあって、この本が僕の中でさらに「すごい度」がアップした。でも、上述の本を読んでいなくても、本書がすごい本だという評価は変わりないであろう。
■本書の期待通りである点
期待を裏切らない部分は、タイトルそのままであることだ。本書は、政治学者がPTA会長になる話だ。PTA会長って大変だよという体験談を政治学の豆知識を交えながら展開する。これはタイトルからも期待できるものだといえよう。
PTAとはParent-Teacher Associationの略であり、教員や保護者を対象とした任意団体である。アソシエーション(association)とは、つまり、出入り自由なサークルである。しかし、筆者が経験したPTAとは、PTAの仕事をみんなが平等に仕事を「負担」し(つまり、押し付けられ)、前例を踏襲して毎年、同じことを繰り替えし、無駄だと思われるような行事やミーティング、会合などが目白押しであった。聞いただけでも鳥肌が立つシロモノである。
おそらくそんなPTAは筆者の経験した学校だけではなく、全国にそこそこあるのだろう。少なくとも評者は本書で描かれるPTAは、日本の組織の悪い部分を抽出した典型例のように見えた(←あくまでも評者の見解です)。本書に登場するPTA役員たちは日本人(←というくくりも申し訳ないが)のダメな部分を集約している。やらなければならない仕事は無駄であろうが非効率であろうが、去年と同じようにつつがなく同じ方法でこなし、無駄だと思う作業もこれが「仕事」だと思い文句も言わずに遂行する、さらには、毎年、何時間にもわたる引継ぎを行って来年も同じようにやってもらうと考える人たちだ。「去年と違うことをするなんて」不安でしょうがない。非効率だと思いながらも与えられた仕事を淡々とこなす人々である。そんな感じだから、パパママはみんなPTAの役員になるのがイヤで押し付けあっている。そんな状態だ。
そんな中でPTAの会長になった筆者は現代エリートの権化みたいな人である。時間は有限だと捉え、効率性を重視し、自分の意見をしっかりいう人である。いわば、文系の高等教育がやろうしていることをしっかりと吸収して社会に出た人だ(まあ、大学で働いているのだからそのはずである)。そんな筆者がPTA会長となり、非効率の塊ともいえるPTAの活動を改革していくのが本書の内容である。
もちろん、筆者にいきなりPTA会長の役割が降ってきたわけではない。ママパパのボランティアで運営されている小学生のためのサッカークラブに毎週通い、それ以外のPTAの行事にも参加する、けっこう、地域に根差した人なのだ。その人が「あなたしかいないからやってくれ」といわれたPTA会長になる話だ。
そこまではアリがちであろう。そんな話なんだろうなという展開だ。しかし、そのあと、だいぶ期待を裏切る展開が待っていた。
「岡田さんはPTAを壊そうとなさっているんですか」
といわれるくらいの筆者が、PTAを楽しい場へと変えていく。活動に加わるのが楽しいと思わせ、パパママの中には自ら進んでPTAの役人になってくれるような場へと変えていったのだ。その内容はいい意味で期待を裏切ってきた。PTA改革のプロセスは他者理解と紛争解決の場なのだ。
■期待を裏切る展開
どのように期待を裏切ってきたのかというと、本書が文化人類学でもあり、紛争解決についての内容も含んでいるという点である。けれども、その内容は、小学生の子を持つという日常生活を舞台にしている。
(1)本書は他者理解の書である
文化人類学である点は、本書が他者理解であることだ。参与観察をして他者を理解しようとしている。非効率な運営にこだわるPTAの役員たちは、彼らなりのロジックがある。自分で創意工夫すると叩かれる(叩くやつがいる)。そして自分が叩かれるから新しいことはやりたくない。そんな役員たちの心理が描かれる。そもそも私たちの社会では「先人がもたらし‥てきた手引きをきちんと継承して書き足してそれに厳密に対応することで失敗や誤謬の確立を下げて、計算通りの結果を安定的に確保する」ような人材が育てられてきたし、高く評価されてきた。そんな社会で生きてきた人が、「アタシたち専業ママがやらないとPTA回らないから、一生懸命やったんじゃないの」と相当な献身ぶりで仕事をしてきたひとたちなわけだ。彼らは社会の変化よりも与えられた仕事を一生懸命やってきた人だ。彼らの中ではその方が正しい仕事のやり方なのだといえる。
さらに本書を読み進めると一見非合理に見えるPTA活動にもある意味での合理性があることがわかってくる。新聞を取る家庭が少なくなり利益がさほど上がっていないのに古紙回収が続けられているのは、子だくさんのお母さんの「少しでもPTAの活動に少しでも参加したい」という思いをくみ取るためであったり、係さん三十人で四時間作業して数千円しか得られないベルマーク集めをしているのは、お母さんたちがその参加を楽しみにしているためであったりする。彼女たちは同じお母さん同士でしゃべる機会がないのでベルマークを切手シートに張ったりする作業をしながら旦那の文句をいいあって盛り上がるらしい。すなわち、ベルマークには経済合理性以外のところに合理性がある。
こんなふうに筆者は「異文化理解」や「他者理解」を通じてPTAに関して理解を深めていくのだ。それはまさに参与観察だといえよう。
(2)本書は紛争解決の書である
この本を読み進めると、そういえばこの前、読んだ本と同じことが書いてあるなと思ったことがあった。その本とは『よい対立、悪い対立』(アマンダ・リプリー著)である(←この前、この本の書評も掲載したよ)。本書では対立関係が発生した時にそれを解消する方法として、他者理解を推奨している。集団を集団として理解してはならない。他者集団の属する個々人と個人的に接することで個人を理解する必要があるという。そうすることで、対立する集団に属する個人が感情のある人間として浮かび上がってくる。
本書でもこうした理解を経ることで対立を解消する方策をつかみ取っている。PTA役員たちと接する中でなぜ古くのやり方にこだわるのか、なぜ新しいことを厭うのかについての考えを理解していくと同時に、その人たちが「どう考えても不要だよね」と考える行事もあることに気づいた。そうした行事を撤廃するところから、筆者はPTA改革の糸口を見出していく。すなわち、「抵抗勢力(PTAの旧体制擁護派)はこういうやつらだ」と決め込まず、その個々人と接したことにより、個人に対する理解をしていった。それにより「改革者」と「旧体制派」という対立構造を切り崩す手がかりを見つけ、それをきっかけにWin-Winの関係を作り、より望ましい形のPTAを作り上げる糸口をつかんだ。そのプロセスは『よい対立、悪い対立』で提示された紛争解決の事例としてそのまま使えるであろう。
いずれにせよ、PTAを替える手がかりを得た筆者は、楽しく自由な活動の場としてのPTAを作り上げていく。そのプロセスについては本書を読んでほしい。
■本書から学んだ事実
なお、本書から得た事実としていくつかの興味深い点があった。
第一にPTAが専業主婦を前提としてデザインされているという点である。本書では、PTAのミーティングが平日の午後の早い時間に設定されていたり、会合に何時間も費やしていたりというようにPTAの役員が専業主婦であることを前提として予定が組まれていると述べてあった。専業主婦の割合も減っており、男性や働く女性などPTAにはいろんな人を含む必要があるという自覚はあるのに、時間を替えるところまで至っていなかったというのだ。こうした意図せざる参入障壁というのは結構あるんじゃないのかなと思えてきた。時代が変わる中で昔からのことを変えずに行っているとで、知らないうちに参入障壁になっているということは多々あろう。もちろん、男性の側でもそうした「参入障壁」を築かないところに作っていることは自覚する必要があろう。僕なんかも「金曜日の夜に飲みたいなあ、久しぶりに会いたい女性友達がいるけど、子育てで忙しいから飲み会には呼べないなあ」とか思っている。これも昔のやり方にこだわっている例だ。その人に会いたければ、平日の昼に会えばいいだけの話だ。幸い、僕は大学の教員なので講義のある時だけ大学に行けばいい。
第二に、学校教員の立場だ。筆者の関わった学校の教員は、メールアカウントが与えられておらず、仕事場のパソコンでYoutubeを見ることもできない。学校に私物のパソコンを持ってくるのも禁止されているということだ。だからこそコロナ禍の時になにもうまく運ばなかったという。
教員は昔ながらのやり方をいまだにやっているというイメージはあったが、これは教員個人の問題ではなく、組織的なルール作りの問題なのだろう。そういう風に思えてきた。僕はいまの小中高のことは全然知らないので勉強する必要があるなあと思った次第。タイとかではラインを通じて保護者に連絡したりしているが、日本はどうなんだろう・・・。
この二つは筆者が経験した特異な状況かもしれないが、おそらく同じような境遇のところは結構あるのではないかと思った次第である。
■まとめ
長くなってしまったが、それは本書から学ぶことが多かったことのあかしだと思ってもらえればありがたい。実は本書、出版された時に気になっていて買っていた。しかし、その後、研究室に積んであった。けれども積読チャンネルというYoutubeで紹介されていたので今回、改めて読んでみた。積読チャンネルが、本書を積読状態から救ってくれたのだ。
正月に二冊もいい本にあたって幸先がいい。
研究者というのはいろいろあるものだ。私はノンフィクションライターになりたかったのだが、その代わりに研究者になったので、ノンフィクションみたいな文章を書くのが好きであり。ちょっと緩い文章を書きたい人も知り合いに入る。また、論文ばかり書く人もいる(まじめだなあと思う一方でえらいなあと思う)。さらには文筆家という立場から飛び出して大学人としかできないことをやっている人もいる。
筆者は、論文よりも一般向けの文章を好む方らしい。他にもいろいろ本を出しているので読みたくなった。大学の教員は研究者ではある。僕もそのはしくれだ。でも、研究者だからといって論文だけ書くというのが道だけではないはずだ。査読付き論文は自分を律するためにたまに(1年に1本くらい)書かなければならないと思う(達成できてないけれど‥)。査読が付くからだ。社会に通用する文章を書くのだという訓練をすることはやはり必要である。けれども、それ以外は自由なのではないかと思う。もっと論文を書いてもよいし、いろんな文章を書いてもいいと思う。文筆家であることにこだ割らなくてもいいと思う。少なくとも私は根っからの研究者である。でも、どんな形の研究人生を辿るのかは自由なのだなと本書を読んで思った。