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新聞記者と文化人類学者がいっしょに取材に行った話

この前、新聞記者さんといっしょにお仕事をすることになった。とあるアジアの国での取材をいっしょにしたのだ(以降、この国をアジア某国と表記)。ぶっちゃけていうと、新聞記者さんのチャーターする車に乗っかってついていった。僕の専門分野に近い取材をなさるということで、何か得るところがあるかもしれないと、いっしょについていくことを快諾してくれたのだ。ということで、人のカネでアジア某国の農村部を回ることになった。僕も軽い調査を行った。

■文化人類学者の調査/新聞記者の取材

記者さんの取材内容は僕の専門分野に関わるもの(つまり国境問題とか紛争とか難民とか)ではあるものの、アジア某国は僕の専門とする地域ではない。

私は、この国の言語が全くできないし、記者さんも同様だ。なので日本語とアジア某国の言語を通訳する通訳者を付けた。こんな感じで新聞記者と通訳者ともに農村を回る取材についていったわけだ。僕も取材の様子を傍で見つつ自分でも調査を行った。記者さんのインタビュー相手に記者さんとは違う質問をしたり、新たな取材対象を提案したりして記者さんとは重なるものの、違う視点から調査を行ったわけである。

その内容は、Noteで開示することはしない(学術的な媒体に乗せたい)。のちに記者さんの書く記事になるわけだし(リアルタイムでの出来事を伝える「ストレートニュース」ではなく、調査報道的な記事になるはずで、それには執筆にも時間を使うはずだ)、僕にとっても専門とするトピックなので、いい加減に開示するわけにはいかないからだ。なので、このNoteでは新聞記者さんといっしょに行動した時の感想を記したい。

新聞記者も文化人類学者も、どちらも同じ「真実を伝える」仕事をしているわけだが、その取材/調査方法は、こういう風に違うのねというのが明確にわかってきたからだ(以下では、文化人類学者の調査も新聞記者の調査もひっくるめて「調査」と表記することにしたい)。

■アジア某国の農村地帯に降り立つ

記者さんとはアジア某国の首都で合流し、通訳さんとともに飛行機で調査対象地域に入った。飛行機は1時間半ほどで調査対象の都市に辿り着く。この都市は隣国との国境が近く、その周辺には隣国からの難民や移民が暮らしている。この調査は彼らについて調べるのが目的であった。

記者さんの取材は1週間ほどであったが、私はそのうちの3日ほどをご一緒させていただいた。夜はこの都市にあるホテルに泊まって、日中は周辺地域を車で取材に回るという感じである。その経験を通して、新聞記者さん、特に海外で取材する特派員さんのお仕事を間近で見ることができた。

もちろん、滞在中の仕事を全部見ているわけではない。この記者さんは、ホテルに帰ってからも部屋に籠って働いていたし(もちろん、私もフィールドノートをまとめていた)、ホテルの朝食会場で会っても「取材ノートを書くのももちろんですが、事務仕事がたまっちゃってるんですよねえ」とボヤいていたので、滞在中の記者さんの仕事、すべてを見たというわけではない。でも、日中、一緒に行動しただけでも「へえ、こんな仕事するんだ」って思うことがいくつかあった。ここでは3つ紹介したい。

■通訳は便利だ

まず通訳って便利だなあってことである。今回行ったアジア某国の言語を私は喋れない。なので私も通訳さんに頼った。通訳と一緒にあちこち回るというのは初の経験である。

文化人類学者は基本、研究対象地域の言語を学んだ上で調査をするのでインタビューの際に通訳をお願いするという機会が少ない。通訳と一緒にどこかに行くという必要がないのだ。言葉の通じない人に会うこともある。例えば、僕はタイが専門地域であり、タイ語ができる。でもタイで少数民族のおじいさんに会いに行ったら、その人は少数民族の言語しかできなかったとしよう(よくある話だ)。でも、周りには学校教育を受けたそれよりも若い世代がおり、彼らはタイ語ができる。そうした場合に、周りの人にタイ語で通訳してもらうといったことはよくある。このように突発的に周りの人に通訳をお願いするということはよくあるが、通訳と一緒に移動するという機会がないわけだ。

で、初めて日本語通訳と回った感想はというと、「やはり便利だ」に尽きる。でも単に日本語に置き換えてくれるから楽だという単純な話ではない。というのは、通訳の知識が役に立つのだ。例えば、この地域ではこういう文化がある。この地域はこうした産業が盛んであるといって情報を世間話として話してくれる。そうすると、この地域のことがなんとなく把握できるようになってくる。さらにはインタビューの後にも、「あの人がこんなことを言っていた背景にはね…」というような補足情報を教えてくれる。さらには、私の方で疑問が浮かんだとしてもこたえてくれるのだ。例えば、「あの人、魚の干物を作る仕事をしてるって言ったけど、魚ってこの辺ではどういう風に食べるの」という質問を投げかけると答えてくれる。

さらに今回は、その人が広範な人脈を持っていた。調査を重ねているうちに「こういう人に会いたいなあ」とか「この点を詳しく説明している人に会ってみないなあ」ということが出てくる。それを通訳にリクエストすると、「私の知り合いにこういう人がいるからインタビューしたらどうですか」とか「ちょっと地元の知り合いにそんな人知らないか聞いてみますね」といって探してくれるわけだ。

もちろん、文化人類学者の私も同じことをする。聞き取り調査の後に知り合いに「こういうことについて聞きたいんだけどいい人いない」と聞きまくることはある。けれども通訳の利点は調査者の調査内容を知っており、この人が知っていること、これから知りたいこと、調査者の知識量を考慮してくれて適切な人物を紹介してくれるということになる。

やはり通訳というのは、単に話すだけではなく、便利なこともあるよなあと思った次第だ。

■人の感情を大事にする新聞記者、事実を深くおいたい新聞社

新聞記者の取材を見て思ったことの二つ目は、感情とか気持ちを大事にするということだ。

その記者さんはよく事実関係を確認した後に、感情についての質問を付け加えていた。例えは、川におそらく難民であろう者の遺体が流れ着いたという話があった。その時にどうしたのか、どういう状況だったのかといった事実確認をした後、記者さんは、「その時にどうお感じになりましたか」という質問を付け加えていた。また、ある時には、ある殺害事件の被害者家族にあった。その時も、「その殺害事件のことを初めて聞いた時、どういうお気持ちでしたか」と聞いていた。

へえ、感情を大切にするんだなあという印象を彼の取材活動を見ていて感じだ。

確かに新聞記事を見ても、インタビュー相手の感情や気持ちというのが、しばしば表現されている。なるほど、やはり新聞記者はこうやって読者に共感できるような記事にしてくのかと思った。

研究者の場合、感情にあまり興味がない(というのは言い過ぎか、私のスタイルがそうなだけかもしれない)。僕は彼のインタビューを聞いて、その時間があったら、もっと事実関係を掘り下げて聞けばいいのにと思ったり、この人に話を聞くよりも同じ現場にいた別の人の話を聞いてみたいと思ったりした。

でも、新聞にとっては気持ちが伝わる記事、読ませる記事も重要である。へえ、こんなところにインタビューの仕方の違いがあるのだなあと思った。

■思考が現行の文字数に規定される

こうした取材も見ていて思ったのが、記者であれ、研究者であれ、文字数に規定されて物事を考えてしまうという点である。

文化人類学者は多くの場合、2万字という「枠」に毒されている。なぜなら日本語で書く論文というのはたいてい2万字という指定があるからである。編著の分担執筆もたいていの場合、2万字である。なので、フィールドワークで情報を集めながらも、そろそろ論文が書けそうだなあと、2万字分の文章書けるかどうかを考えてしまう。

どうも新聞記者も同じらしい。調査報道やWeb記事であっても、6000字くらいだそうで、やっぱり6000字書くということを考えるらしい。

こう考えると、私が「もっと事実関係を掘り下げて聞けばいいのに」と思ったり、「この人に話を聞くよりも同じ現場にいた別の人の話を聞いてみたい」と思うのも当然である。2万字に毒されている私は、一つの文章を書くときに新聞記者よりも情報を必要としているからである。

論文であれ新聞記事であれ、ひとつの「書かれたもの」(日本語にはいい言葉がないが英語ではarticleといえよう)は情報の束である。そこに詰め込まれた情報はバラバラに存在しているわけではなく、有機的に重なり合った情報の束となっている。その束を作るために書き手の頭は縛られているのだ。

■6000字、2万字を乗り越えろ―本を書くという仕事―

さて、研究者であれ、新聞記者であれ、著書を書くことがある。私も2冊本を出しているが、その経験から感じたのは通常の執筆の枠を外さなければならないということだ。すなわち、本を書くときには自らの通常の枠(研究者にとっての2万字、あるいは、新聞記者にとっても6000字)を越えた「10-20万字」くらいの束を作らないといけないのだ。

そのためには、本の分量を意識して調査をしなければならない。本というのは様々な情報が、その中で有機的に繋がっている。論文や記事と同じような「情報の束」として中に含まれるものを有機的に組み合わせる方法も若干違ってくる。例えば、一軒家を作る技術とビルを作る技術が共通するところもあるものの、違うところがあるように、本には本の作り方がある。研究者であれ記者であれ、それを意識しなければ本を書けない。

確かに研究者の中には「おまえ、それ2万字の論文をあつめただけやないかい」って思わせるような単著を書く者が少なくない。あるいは、論文は面白いのに本は面白くないという人もぶっちゃけいる。また、今回一緒に行動した記者さんによると、本を書かない新聞記者も少なくないという。さらに本を書くことを意識している記者は仕事をしなくなる傾向にあるとのことだ(本を書くための情報集めが多くなり、ストレートニュースをあまり書かなくなるとのことだろう)。

物書きは自分の書く媒体(論文や記事)の文字数に縛られてしまう。それを乗り越えられない人も多い(←人のこと言えないかも…)。調査の中で対象についての理解を深めていくためには様々な枠で考える必要があるのだろう。


雑感になってしまったが、新聞記者さんと行動する中で、新しく気づいたことがいくつかあった。この経験は自分が「調査者としてどのような位置づけにあるのか」「物書きとしてどのような立場を取っているのか」を考えるきっかけとなった。この時の調査内容は後々論文、あるいは、学術的な記事にするので触れていない。でも、学術的な文章、あるいは、仕事としての文書としては書けないけれども、書きたいことがあったのでここに記しておくことにしたい。

<謝辞>この旅行では、この記者さんにお世話になりました。はやく記事煮らないかなって楽しみにしています。そして、通訳さん、そしてもう一人。僕をこの旅行へとつないでくれたアジア某国研究者である友人にお礼を申し上げます。この時の僕の調査が文章になるのはもうちょっとお待ちください。

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