アルバイトを辞めた。

 薄い板状のゴムに刻まれたいくつもの印面を、文字の縁ぎりぎりのところで切り分けるように、裁断機の刃を下ろす。切り分けたら、印面の裏に両面テープを貼ってゆき、出来たら台と一緒にカゴに入れて次の工程のグループに渡しにゆく。汚くて狭いが静かな作業スペースで、黙々とゴムを切ってゆく印章屋のアルバイトそのものは、ぼくの気性には合っていた。バイト代は驚くほど安いが、たいして苦労も工夫もいらない仕事なのでまあそんなものだろうと思っていた。半年前に始めたばかりのバイトを、辞める気もなかった。
 3日前。ヤナギさんが突然スペースに入ってきた。ヤナギさんはいちおうぼくの上司だが、バイトを始めて半年、この人が仕事をしているのをぼくは見たことがなかった。煙草に火をつけたヤナギさんは、独特の鼻声でぼくに話しかけてきた。
「でかい地震があったじゃん。10年前」
「はあ」
「あれでさあ、土砂崩れの被害に遭って家が壊れたっていうんで、国に補償を求めて裁判やってる人たちいるじゃん」
「そうなんですか」
「知らないの?」
「はあ」
「無知だね。だけどそれ、おかしくない?土砂崩れが起きるような場所に家建てたの自分たちだよ?それを国に補償してくれとかさあ。おかしくない?おかしいよね?」
 ぼくは無言でゴム切りの作業を続けた。煙草の灰を床に落としながら、ヤナギさんは同じ問いを繰り返した。
「おかしくない?土砂崩れが起きるような場所に家建てておいて、国に補償してくれとか。おかしくない?」
 ヤナギさんの問いは、不快だった。鼻声で何度も同じことを繰り返すのが不快だった。「国に補償」を求める人たちを悪者にしようとしているのが露骨にわかることも不快だった。問いの理由がわからないことも不快だった。ヤナギさんはなにか重大なところで間違っているような気がしたが、なにが間違っているのかうまく言えないことも不快だった。
 そして、ただでさえ汚くて狭いスペースが煙草のにおいで澱んでゆくのが不快だった。
 ぜんぶ不快だった。
 ぼくはそれらの不快感に耐えながらゴムを切り続けていたが、ある瞬間、手が滑った。左手の人差し指の先の皮膚が切れ、印面の文字の端が欠けた。
「あーあーあー、やっちゃったーあー」
 ヤナギさんがなぜかうれしそうに言った。

 今朝、印章屋の社長に、アルバイトを辞めたい、と電話した。ヤナギさんの問いについては、なにもわからない。これからもずっとわからないだろうと思う。