彼女の思い出

 彼女はむかし娼婦だった。ひと晩100万円の娼婦だった。
 彼女いわく「そのころのことはほとんど忘れてしまった」そうだ。「職業倫理とか、そういうこととは関係ない、ほんとうに覚えていないし、思い出すこともない」のだという。娼婦ではないが、彼女の言うことはわかる気がする。そんなものかもしれない。日々の仕事というのは、覚えていられないし、思い出さなくなるものだ。
「でも、ひとりだけ」と彼女は言う。「ひと晩、UNOをやりたいと言った人がいたんです。その人のマンションでUNOをしました。途中で宅配ピザを頼んで、野球盤やサッカーゲームなんかもしたんですけど、ほんとうにずっとそういうことだけ、朝まで。それで100万円。7時ごろ、会社に行くその人と、歩いて駅まで行きました。改札で別れるとき、その人、笑顔でした。男の人の笑った顔を綺麗だと思ったのは初めてでした。その人だけです。いまでも思い出します。その人のことだけ」