彼女は、ヘッドフォンをつけている。

 彼女は大きなヘッドフォンをつけていた。学校でも、授業中以外は、ずっとそれをつけている。だから彼女の存在は目立つ。
「耳栓とかのほうがいいんじゃないの」
 彼女といっしょになる通学の電車内で、ぼくはときどきそう言ってみる。でも、彼女いわく、
「聞いてないってことをまわりにアピールするためには、このほうがいいの」
だそうだ。

 彼女の耳は、特別な耳だった。
 聴覚が特別というのか、脳がそもそも特別なのか。たとえば、すこし前の話をしよう。朝の電車で、吊革につかまって立っている会社員ふうの女の人がいた。おかしな様子はなかった。
 女の人は、なにも言っていない。言っていないけど、ぼくの隣に座っていた彼女は立って、
「どうぞ」
と、女の人に席をゆずった。女の人はとまどっていたが、ありがとうございます。と弱々しく礼を言って、ふらっと席に座った。
 電車を降りてから、彼女に訊いた。
「さっきさ。なにか聞こえたの?」
「さっきの人、調子悪かったんだよ。あー、だるい、つらい、しんどいつらいホントつらい座りたい。って聞こえた」
「やっぱり、そうか」
「普通にしゃべるときの声と変わらないくらいの強さで聞こえてきたから、席、ゆずったよ。困惑されたから気まずかったけど」
「病気とかじゃないの。席ゆずるだけでよかったのかな」
「……病気っていうか……いや」
「え?」
「月にいちどさ、あるじゃん」
「……ああ、ごめん」
「謝ることないけど。そういうのだったみたい」
「うん」

 つまり彼女の耳は、声に出さなくても、他人の思いが「聞こえる」耳なのだ。
 だいたい10000人にひとりの割合で、「聞こえる」耳や、「見える」目や、「嗅ぎとれる」鼻や、「味わえる」舌や、「さわれる」肌をもつ人は生まれてくるそうだ。出生時に、それはわかる。2100年前後から彼らのような存在はあらわれた。あるいは、やっと注目されるようになった。らしい。
 それを積極的に自分のスター性や特技としてメディアに売り込んだりする人もいる。けど、彼女は、できるだけ自分の耳をヘッドフォンで隠している。
 あえて隠す。「聞こえない」と示すために。「聞いていない」と示すために。
 その理由をぼくはまだ知らない。強迫的なまでに潔白を主張するようなヘッドフォンの理由を。

 理由は訊かない。でも、彼女のことが心配になるとき、ぼくは静かに彼女の手を握る。握りながら、大丈夫だ。大丈夫だ。と、ただそれだけを、心のなかでつぶやく。