狂わないでね。元気でね。
ぼくはぼくの所属していた「塾」から最初に「追放された」生徒だった。もっとも「逃げた」生徒ならすでに何人もいて、ぼく以外の生徒からすればぼくもまたそのひとりにすぎないのかもしれない。
でも「逃げた」ことと「追放された」こととは、まったく違う。とぼくは思う。その違いは重大だ。とも思う。
ぼくを追放したのは「塾」の主宰者、ぼくらの「先生」だったけれど、先生は、逃げた元生徒の全員から軽蔑され嘲笑されていた。たとえば、かつて先生を「博覧強記」と評していた人は、逃げてからは「狭覧弱記」と言って笑っていたし、「真実一路、硬骨漢」と評していた別の人は「尊大なオポチュニスト」とSNSに書き込んでいた。
ある日ぼくは元生徒のイザワくんとマツシマさんに飲みに誘われた。ふたりはぼくに優しかった。とくにイザワくんは、ぼくを励まし、慰め、奢ってやると言い、存分に飲めと言った。
「あいつ最悪だよな」
「この人、まじめだったのにね」
「自分の言うこと素直に聞くまじめな人間をさ、いびるっていうか、いたぶるのが趣味なんだよ。人を人だと思ってない」
「歪んでるよね」
「サディスト」
「サイコパス?」
「まあなんにしろ、人にもの教えたり育てたりできるような人間じゃないよね。向いてない。教師の資質ゼロ」
ハイボールを啜りながら、ふたりの口からつぎつぎ飛び出す言葉をただ黙って聞いていたぼくに、イザワくんが言った。
「きみも思ってることどんどん言っちゃえよ。もうびくびくすることないんだし。不満とかムカついたりとか、いろいろあっただろ?」
「不満。ムカつく。……先生に?」
「あたりまえでしょ。なんのための集まりだよ」
ぼくはふたたび黙った。イザワくんとマツシマさんも黙った。場の空気が徐々によどみ、こわばっていく気がした。テーブルの上の皿も、3人のジョッキも、ほとんど空になっていた。
「きみさ」
イザワくんが口を開いた。ただその声と目つきには、最初のなごやかさはなかった。
「なんできょう、きみを誘ったと思う?そういう態度、ある?べつに失礼なことされてるわけじゃないよ。でもこっちとしては、気遣いを無にされてるみたいで、いい気はしないよ?」
「イザワくん、やめようよ」
マツシマさんが彼を止めた。彼女は、おとなしそうに見えるが、正義感というのか、そういうのが強い人だったことを思い出した。塾にいたころ、先生にたびたび異見をはっきり述べていたことも思い出した。だから疎まれたのだ。
「あなたが塾をやめて、落ち込んでるんじゃないかと思ったの。だからわたしたちなら、味方っていうか仲間っていうか、そういう」
「…………落ち込んではいます」
彼女の言葉を、ぼくは遮った。
「落ち込んではいますけど、ぼくは、先生に不満があるわけじゃないし、悪口なんか言いたくない。たしかに先生は矛盾だらけで、ぜんぜんたいしたことのない人で、教師の資質がないサイコパスで、たとえば、なんだっけ、『狭覧弱記』で、『尊大なオポチュニスト』で、そういう人かもしれないけど、そういう人だから好きなんです。そういう人だから、先生はぼくの先生なんです。その先生に追い出されたから、落ち込んでるんです。もう塾にも行けないし、先生にも会えないことが、ひたすら悲しいんです」
そこで言葉を切った。水滴だらけのジョッキにたまっていた、氷の溶けた水を飲んだ。イザワくんもマツシマさんも、呆然としていた。
「おまえ、気持ち悪いな」
イザワくんが、ぽつりと言った。ぼくは「きみ」から「おまえ」に格下げされてしまった。
「そんなだから、追い出されたんだよ。おまえ」
帰るわ。金は払うよ。約束したから。と、伝票を持って席を立ったイザワくんに続いて、マツシマさんも立ち上がった。
「私たちも出よう」
うなずいて、彼女と店を出た。賑やかな通りを、ひとりで駅のほうへ早足で歩いてゆくイザワくんの姿が見えた。
それをなんとなく眺めていると、マツシマさんが言った。
「なんかきょう、ごめんね」
「……いえ。こちらこそ」
「あのね」
マツシマさんはそこで、自分の耳を指でせわしなくこすりはじめた。それは、緊張しているとき、とりわけ誰かに言いにくいことを言おうとするとき、たぶん気持ちを落ち着けるための彼女の癖だった。塾の授業で、先生を見ながら、異見を述べる前にいまと同じしぐさをしていた彼女の姿をぼくはまた思い出し、マツシマのあの耳をいじくる癖は神経症的な感じがすると先生が陰で評していたことを同時に思い出した。
「あのね。一個だけ」
マツシマさんが、耳に指を添えたまま、ぼくの顔に目を向けた。
「──あなた。狂ったりしないでね。狂わないでね。元気でね」
「え」
マツシマさんはぼくの顔を見たまま、もういちど同じことを繰り返した。そして、ひとりで歩いて行ってしまった。
狂わないでね。元気でね。
マツシマさんのその言葉とともに、ぼくもしばらくして、駅へ向かった。