見出し画像

人を喰う男と。

 わたしは人を喰って帰る男を待っている。男は夜7時ごろに帰ることもあれば、日付が変わってからそっとドアを開けることもある。でもわたしはどんなときも男の帰りを待っている。居間兼台所兼ダイニングで、自分ひとりぶんの夕飯を前に。
「先に食べてていいのに」
 男はいつも言う。
「いいのいいの」
 わたしは向かい側の椅子に座った男に焙じ茶を出し、自分のために作った夕飯を温めなおしてテーブルに置く。きょうはトマトときのこのソースをかけたチキンソテーとわかめスープ、温野菜のサラダと雑穀ごはんだ。
「きょう、どうだった?」
 焙じ茶を啜る男に、わたしは訊ねる。生ぐさいような、錆びた釘を舐めたときのような、いつものにおいが漂っている。
「若い女の子だったけど」
 男はぼつぼつと話してくれる。どんな人を、どこで、どんなふうにして、どうやって、喰ったのか。トマトの酸味がよく絡んだ、やわらかく焼けた鶏肉。きのこやブロッコリーの繊維。ぷちぷちした歯ざわりが気持ちいい雑穀ごはん。いつものにおいに包まれた食卓で、夕飯をゆっくり咀嚼しながら、男がその日に喰った人の話を、わたしは聞く。これが、男とわたしの習慣だった。
「おいしい?」
 男が訊く。わたしは男の顔を見る。どちらかというと色白の、眼鏡をかけたその顔が、ほんとうにどこにでもいそうな中年男性であることは、わたしをときどき不思議な気持ちにさせる。
「おいしいよ。鶏肉、いい具合に焼けた」
「そう」
「そっちは?おいしかった?」
 男は、うーん、と眉をひそめた。
「あんまりだなあ。脂っぽかった。最近は喰ってて、ああ、これ明らかに身体に悪そうだなって思っちゃう味の人が、圧倒的に多いんだよね」
「そうなんだ」
「かといっていかにも健康そうなのもダメだね。大味で」
「ふーん。難しいね。大変だ」
「うん。焙じ茶、もう一杯ほしいな」
 急須にお湯をいれていると、男がふいに、わたしに言った。
「このまえ読んだ本にね」
「うん」
「おれみたいな女の子に片想いしてる男がね、彼女に、人を喰ってほしくないって言う場面が出てきたんだ。その男は自分のことをその女の子に喰ってほしいと思ってるんだって。で、もう、自分のほかには、人を喰わないでほしいんだって、必死で言う」
「そうなんだ。なんでだろうね」
 適当なあいづちのつもりで、言った。なによりもわたしには、急須から湯呑みにお茶を注ぐ音って、なんかかわいい、ということのほうが、そのときは大事だった。
「きみはさ、おれに対して、なんていうのか、そういうふうに思うことは、ないの?」
「ないよ」
「即答だね」
「即答だよ」
 わたしは湯呑みを男の前に置いて、言った。
「わたし、あなたが人を喰った話を聞きながらごはん食べるの、大好きなんだもん」
 男は笑って、何度かうなずいた。笑うしかないというような微妙な感じの笑顔だったけど、べつにそれでいいと思った。そしてわたしはそれから、きれいに夕飯をたいらげてしまった。