人は自分の見たいものしか見えない。
1805字
今日の朝日新聞の1面である。
100%同意したい。
人間の意識下の感覚なんて、本当にあてにならないと思う。五感の中でも特に視覚と聴覚。
日常生活では、完璧に掃除機をかけた後、安堵し、床に座るとカーペットに掃除機で吸いきれなかった髪の毛を見つける事がある。
綺麗好きな私はこのおかげで、たまにイラつく。自分の目はやはり節穴だと落胆して、自身を責める。
人は掃除機をかけた事で、綺麗になったと思い込み、実際に見えている残っていたゴミを物理的に見えているにもかかわらず、思い込みには不都合であるとして扱い、脳が消している。結果、見えていない事になっている。
人間の脳は本当に都合がいい。いや違う、都合がいのは私達の思い込みだ!
聞きたくない人の話は聞こえてこない。聞こえなくて良い話は世の中に多いので、私にとっては本当にありがたい。
ではなくて
私のアパートは大きな交差点の近くにある、住んでいる町は大都市の郊外にあり、割とエンジン音のうるさい車が多い。しかし、リラックスをしたいが為に、好きな音楽をイヤホンなしで聞いている時、その交差点でエンジンをふかしているバイクや車の音は聞こえてこない、余程、気分を害するレベルの爆音である場合は別である。好きな投資家のYou tubeを見ている時、妻の問いかけは聞こえてこない(認識しない)
人間は意識的に決して全てを見聞きして、認識してはいない。
ただ、脳は見ているし認識している。
記憶もしかり、私の妹は、昔の曖昧な出来事を自信満々に話す。
脳による、間違いないとの思い込みバイアスがかかっている可能性がある。
要するに正しいものである事は怪しい。私はいつも彼女の昔話を半分しか聞いていない。
一般的に、人間が昔の記憶を頼りにある出来事を話すとき、その信憑性が100%であることは、ほぼありえない。
そこには常にその人の思い込み(=こうであって欲しい)がバイアスとして、
かかっているからだ。
バイアスをかけているのは、前頭葉、
前頭葉はあなた自身のキャラクターを司っているところ
だから、私自身の記憶も、前頭葉によるバイアスがかかることを理解しているので、あらかじめ信用していない。だから、責任問題に関わる事態では、他者も同意できない事実でない限り、記憶を基に話はしないようにしている。
もし記憶が正しいものであったとしても、その記憶に自信を持っていても、一度、他者から疑われた瞬間、自身でその記憶を疑いだす。
「違う」かもしれない。
本当に人の記憶なんて曖昧だ。
そして、これも同様に自分の脳にある、「こうなって欲しい」と言う、願いがバイアスとして、その記憶を歪めてしまう。
思い込みはバイアスとして、意識下で感じる感覚を歪め、記憶をも歪めている。
たまに、私は自分は本当に何を見ているのだろうか?
どのくらい世の中の真実を見ているのか?と思う
その思い込みバイアスは、根拠はないが、自身の信念や価値観によって支えられていると、私は考えている。
私の場合は、
比較的、集団を避けたがり、また天邪鬼の気質を持っていることから、多くの人が見えている物が私には見えていないのではないか、と思う事がある。
脳からすれば、世の中は一人間の脳で処理しきれない情報に溢れている。その為、脳🧠はおそらく、本人が好む情報のみをその人の趣味趣向に合わせて、瞬時に選んでいる可能性が高い。
そう仮定すると、目利きとか、見る目があると言うのは、実際、何なのだろう。本当に見る目があるのだろうか?
いろんな意見があるとは思うが、なんか、私はちょっと違うような気もしている。
もしかしたら、玄人は素人とは違う物を見ているだけかもしれない。それは素人からすると新たな発見なので、新しい物であるが故に、見る目があるという事になるのかもしれない。
それは見る目なのか? ただ違う側面を見ているだけに過ぎないのか?
その玄人の目利きを支える思い込みバイアスは、私の考えからすれば、その道に関する知識が支えているのだと思う。
素人も見る目を養う為には、基礎知識が必要だ。そうでないと、思い込みバイアスを育てられない。目利きになれないと私は思う。
しかしながら、初めて見るものに関しては、思い込みバイアスがかかりようもないので、純粋な目で見ることできて、新鮮な感覚を楽しむ事ができると思う。
多分、不思議な感覚だろう。そして、それは新たな自分を発見した事になると思う。
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